ドラえもん
Q:何故『ドラえもん』が21世紀になってなお、児童向けアニメの中心に座っているのですか?
A:野比のび太という「怠け者に気に食わない価値観を凝縮させてから殴り倒す」基本プロットが、平成文化の基本プロットと相性がよいためだ。
「ドラえもん」に溢れる「未来への科学な夢」は既に、テレビゲームが登場する以前の昭和時代の子供(令和の親か祖父母)にとっての夢という過去の遺物であり、令和の子供たちにとっての原作漫画は、服装からして受け付けない。幅広い話題や提示される価値観もまた、LGBTへの理解尊重が求められる令和の世では、すっかり昭和の旧弊と化しており、秘密道具など非科学の極みだ。
しかしながら、小学館の宣伝を差し引いても、一つの点では現代性が認められる。「怠け者な価値観をまずユートピア的に描いてから、最後に破滅させて現実に引き戻す」プロットだ。「ぐうたら感謝の日」辺りが好例だろう。これが下流階級の味方と自称して、自己責任と弱肉強食の価値観を刷り込む平成アニメの作話法と実に相性がよい。
平成アニメもライトノベルも様々な夢を描いた。しかし、最後に破綻させられるのが最初から確定している夢なのなら、現実を変える力は皆無である。そのユートピアを描いたのは、そんな世界を憎んでやまない大人のクリエーターである。
更に言えば、「ドラえもん」は藤子不二雄作品の中でも昭和アニメの中でも教育的ではありえない。「パーマン」の主人公が見習うべき主役とするなら、のび太は明白に、作者が「このように育ってはならない」と読者に思わせるために造形されている。客観的に教育的と看做されるには、「主人公みたいに育てよ」とのメッセージが伴っていなければならないとすると、ジャイアンだけでなくのび太や脇役生徒までが絶交レベルの悪戯を繰り返す「ドラえもん」に教育性はまったく無い。
ジャイアンのような恐喝、強奪、暴行を繰り返す犯罪者が友人面をしているのは、決して昭和アニメの当たり前ではない。「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」にそのような友達はいない。市民意識の味方というなら、朝日新聞は即座に「ドラえもん」と断交すべきだ。
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