第五章 究極の正義/Apocalypse(2)
▼ Day4 03:00 EST ▼
ニューヨーク市、バッテリーパーク。
マンハッタン島の南端に位置する、有名観光スポットの公園である。
公園からは、広大なハドソン川が一望でき、それを隔てた向こう側を見渡せば、100万ドルの夜景と名高い摩天楼が見える。さらには、純金のたいまつを頭上に掲げた、米国の自由と民主主義の象徴たる巨大な女性像――自由の女神の、凜々しい姿も望めた。
白い吐息を唇から漏らし、いっそう冷え込んでいく夜気に耐えるよう、マフラーへ首を埋める。襟を立てたロングコート。白頭鷲の仮面で隠した顔。もはや誰もが知る出で立ちで、川辺の手すりに寄りかかり、男は独りきりだ。そうして夜景を眺め続けていた。
いつか、絶望の渦中で、橋から眺めた夕陽を思い出す。
あれから、もう何年が経つのだろうか。濁った雲に覆われた空。星1つない闇の中で煌めく高層ビルの数々を見つめ、胸中にあるのは……喜びでも悲しみでもない。
「……」
夜間外出禁止令が出ているニューヨークの夜景は、人出が少ないせいだろう、いつもより少し暗く感じた。外を出歩く者が皆無のため、大都会の夜でありながら、耳が痛くなるほどの静寂で満ちている。警邏している軍の車両に見つかれば、誰であれ、たちまち捕縛されてしまうだろう。自らが捕まるかもしれない、つまらないリスクを背負ってでも、今夜はこの夜景を眺めて過ごしたいと思っていた。
今夜が、米国が米国である、最後の夜になるかもしれなかったからだ――――。
ふと。背後で、地を踏みしめる音が聞こえた。
無人と思っていた公園内に、突如として他人の気配を感じた。
驚くことはなかった。なぜなら、その気配の正体に、男は何となく察しがついたからだ。
「……さすがだよ。この場所に、私がいることを突き止めてくるとは」
振り返れば、案の定である。
不揃いな黒髪。悪い目付き。羽織ったコートのポケットに、両手を突っ込んでいる。日本人の少年だ。ふてぶてしく、愛想がない態度は、もうよくわかっている。園内に灯る街灯に照らし出された姿は、まるで都会に出現した漆黒の獣のように、危険な気配を放っている。
男は手すりに背を預け、少年の登場に苦笑した。
「……想定していなかったわけじゃない。君ほどの知性の持ち主なら、むしろここを突き止めてくる方が自然だ。やはりこうして辿り着いたわけだ。私の居所へ」
男の言葉を聞くと、少年はその場で立ち止まる。冷ややかな視線を男に向けて言った。
「想定していた割には、護衛の1人も付けていないのか。ずいぶん余裕だな」
「もちろん“勝算”があるからだよ」
「……」
「それにだ。護衛を付けていても無駄だろう? この場所に君が現れたということは、君は、もう私と対峙する準備が整っているということだ。内通者たちの正体は割れ、ニューヨーク市内の拠点は押さえられ、私の部下たちは捕まっているはずだ。この公園も、すでに軍の兵士たちによって包囲されていると見るね。君は勝利を確信して、この場に現れた。違うかな?」
男――ジェイク=カーター元大統領は、すでにそのことを見越していた。
それ故の、余裕の態度である。
少年――カナタは、愛想もなく、素っ気なくジェイクへ答えた。
「概ね、お前の推察する通りの状況だ。だが1つ間違っているな。ここに軍の兵士は来ていない。いるのはオレ1人だけ。他には誰も来ていない」
「どうかな。君の言うことは信用ならないからね」
「お前の言う、勝算があるというのも疑わしい話だ」
「とぼけるじゃないか。君なら、私の言う“勝算”の正体に察しがついているはずだが」
見抜かれている。
試されたカナタは、それを鼻で笑って答えた。
「……お前が捕まるか死んだ場合は、インターネットを通じて、自動的に
ジェイクは、わざとらしい拍手でカナタを皮肉した。
「その通り。さすがエリスの見込んだ男だ。この指輪が見えるかね?」
ジェイクは右腕を軽く持ち上げる。人差し指に付けた指輪を、カナタから見えるように掲げた。その指輪を見やり、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「この指輪は、うちのハッカーが製造した特別製だ。私の位置情報と生体情報を、ニューヨーク市内の、ある場所へ、暗号通信で送り続けているそうだ。私の身に何か起きたことを感知すればすぐさま、そこに設置されたネットワーク端末が、
指輪の宝石部分が、プッシュスイッチになっているようである。
指輪がある限り、カナタたちはジェイクを捕らえることも、暗殺することも難しい。周辺の無線ネットワークを遮断したなら、ジェイクの生体信号も途切れてしまい、異常検知される。情報は自動的に公開されてしまう仕組みのようだ。つまり、ジェイクを目の前にしながらも、誰も手出しができない状況なのだ。米国の心臓を、今すぐ握り潰せるのに等しいのだから。
カナタは面倒そうに嘆息を漏らした。そして、手近なベンチへ腰掛ける。
ジェイクを見やり、言ってやった。
「お前がオレの来訪を予見していたのと同じように。オレもお前の作戦なら見抜いていた。そうくるだろうことに、驚きはない」
「ほお。では、私の作戦をどうにかできる知恵を携えてやって来たのだろうね。面白い。なら君の作戦を披露してもらおうじゃないか。私は米国最大の秘密を握っている。致命的な弱点を押さえられたまま抗う術など、果たして君たちに見つかったのかな?」
答えず沈黙するカナタ。その態度を見て、ジェイクは改めて、自身の優位を確信する。
――いかに天才といえど、勝てる条件が皆無の勝負を、ひっくり返すことなどできない。
天才はただの天才であって、神ではないのだ。
せいぜい、こちらと折り合いをつけられるような妥協点と条件を出してきて、取り引きするくらいのことしかできないだろう。ジェイクはそう予想した。
だがジェイクに、取引するつもりなどない。
カナタはしばらく黙っていた。やがて、曇った夜空を見上げ、ポツリと語り始めた。
「……初めて会った時から、お前には違和感があった」
これまでの経緯を思い出しながら、カナタは続けた。
「お前のたいそうな演説をいくら聴いていても、お前自身が“本当に望んでいること”が何なのか、オレにはわからなかった。お前は何度も主張したな。自身の行動がいかに正しくて、いかに意義があるのかを。国民が本当は何を望んでいて、社会がどう変わっていくべきなのかを。だが、その中にお前の望みは何もなかった。お前の想いがどこにあり、何を望んでいるのか。一度も口にしなかった」
カナタは視線を転じ、無表情でジェイクを見やった。
「この国の内戦を目論んでいるだのと言うのは、CIAや政府の閣僚が、勝手に分析して見立てている思い込みだ。お前自身の本当の目的が何なのか、オレは考え続けていた」
冷ややかな眼差し。2人の目線が合い、互いに互いの思惑を探り合う。
「お前は平和的に現政権を葬り、新たな政権を誕生させるべく、政府へ要求を出したな。だが最初から、その要求が拒否されるとわかっていたんだろう? 既得権益にしがみついて私腹を肥やしている議員や富裕層。そいつらが今さら利権を手放してまで、お前の提案する世直し案に乗ってきたりなどしないことを。社会の上層が腐っていれば腐っているほど、既得権益者たちは、人々の平穏より自身の利益と保身を優先する。もしも政府に良心が残っていれば軍政が始まり、もしも政府が腐りきっていれば要求は無視され、この国は内戦へ向かうはずだ」
「……」
「お前は賢い。だから結果は予想できていたはずだ。拒否されることがわかっていて、それでもなお政府へ要求を出した。予想通り。お前の指定した期限が近づいてきても、米国政府内は何一つまとまっていない。そんな風に、この国が内戦に突入する、大局が予想できていたと言うのに、お前は敢えて“選択の機会”を与えたな。おかしいだろう。まるで結果がどちらに転んでも、構わないみたいだ。心底からこの国の内戦を願っていたなら、最初から政府に取り引きなど持ちかけず、黙って
カナタは、視線を鋭く細めた。
「だからこそ、ようやくわかったよ」
「私の本当の望みを、かね?」
「ああ。お前は初めから、舞台に立つ演者じゃなかった。ただの観客に過ぎなかったんだ。だからこそ、明確な意思や目的なんてものを持っていなかった。観客が舞台に関わる理由はただ1つ――――“見たいから”だろう? この国の行く末をな」
「……」
「お前のやっていることは、ある意味で大いなる“実験”だ。巨大な不正がうごめく社会で、人々が正義を追求し続けたなら……世の中はどうなっていくのか。どんな結果になるのかわからない未来を、お前は見届けようとしていた。それだけだったんだろう?」
尋ねられたジェイクは、しばらく黙り込んだ。
2人が喋らなくなると、静寂はその濃さを増す。眠らない大都市と呼ばれるニューヨークは、信じられないほどに静かな夜を迎えていた。
――まったく、何という少年だろうか。
思い入れのない綺麗事を並べ立てて、ただ人々を煽動していたことを見抜かれてしまった。自分の行いによって、世界をどう変えていきたいのか。大した理想を持たないことを、知られてしまった。自らの作り上げた、
それを悟ったジェイクは――白頭鷲の仮面を取り外した。
「いつの時代も……人々は自身の選択が正しいことを願っている」
老練の素顔を露わにしたジェイクは、僅かに微笑んで語り始めた。
「正しい人生を歩み、正しい伴侶を選び、正しい親でありたい。自身が正しくあることで、いつしか幸せになれる。人々にとって、つまり正義とは“信仰”の1つなのかもしれない。どんな境遇に生きていても、それは、どこにでもありふれた人の願いだろう?」
「……」
「私の息子も、他の多くの人々が信じるように、正義というものを信じた。だが残念ながら、息子はその信仰によって、命を奪われることになった」
そのことを、いつまでも悔しく感じてきた。だからこそ、表情を顰めてしまう。
「息子が信じた正義の正体を、私は突き止めたかった。私も、息子の信じた正義に近づこうと努力したんだ。その結果、今度は妻も失うことになった。私は何もかもを失った」
「知っている。お前の過去なら、ゾーイから聞かされた」
カナタは、ジェイクにそう教える。ジェイクは苦笑した。
「私の求めた正義とは、私の愛する者たちの命と釣り合うほどに、果たして重大なことだったのか。ずっと、それを知りたいと願っていた。だからさ。大統領になることで、その真実を突き止めようとしたのさ。そして私はついに……知るべきではなかったことを知った」
ジェイクはゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。
それは大きなため息だった。
「息子が突き止めようとした事実は、米国の息の根を止めかねない、政府の巨大な不正についてだった。その秘密を守ろうとした政権の一部の人間たちによって、私の息子と妻の暗殺は決められたんだ。国を失うか、議員の妻子を殺して口を封じるか。選ぶべきは決まっている。私は認めてしまったんだ。この国にとって、私の家族を殺すことは“正義”だったのだと」
告白しながら、息苦しそうに胸元を掴む。
「私は愛国者だ。最大多数の幸福のために、奉仕することを厭わない。この国の国体を守護するために、汚いことに目を瞑らなければならないことも、時にあるのは理解している。だが、だからこそ、わからなくなった。不正をなかったことにすることが正義で、そのために私の家族が死ななければならなかったのなら――――私の信じてきた正義とは何だったのだ?」
細めていた目を、やがて険しく血走らせていく。行き場のない、ドス黒く激しい憤りの気持ちが、胸中を滾らせてきたからだ。ジェイクは、カナタを睨んで言った。
「不正の数々を見逃し、私の家族の命を奪うことで維持される今の社会を、私は認めることなどできない! これが正義であるはずがないんだよ! この国は今、“偽の正義”によって成立している。なら本物の正義はどこにある?! 息子が求め、私が求めた真の正義だ!」
その答えを欲していたのだ。
「こんな例え話があるよ……。戦争で、大勢の敵を倒した剣士の話だ。祖国の人々にとって、剣士は多くの敵から国民を守った救国の英雄だ。だが敵国の人々から見ればどうだろう。剣士は多くの仲間を殺した大量殺人者だ。人の考える正義とは、見る者の視点によって決まる。唯一無二ではない、不確かで曖昧な、形のないものだ。つまり個人の目で、真の正義を見極めることなどできないということさ。様々な立場。あらゆる者。それらが集まり、議論し、ぶつかり合い、そうすることで今、見いださなければならないんだよ――“究極の正義”を!」
激しい怒りと情熱に胸を焦がし、ジェイクは自身の思いを口にする。
「社会が汚職と腐敗にまみれ、多くの弱者たちが、富める者たちの刹那の戯れに振り回され、全てを失う。そんな狂ったこの時代だからこそ、我々は今一度、真剣に思い出さなければならない! 正義とは何だったか! 究極の正義とは何か! その答えがないまま、何も考えずに俯いて生きようとするから、狂った社会が何も変わらないことを認識するべきなのだ!」
拳を固め、熱弁は続く。
「最大多数の人々が心底から正義を追求することで、この国は本当に正しい姿に戻ることができる。そう信じて、私は各地で人々を煽動した。今の法は正しいのか。守るべきは権力者たちのルールなのか。改めて人心に問いて回ってきた。今この国では、数え切れない人々が、正義とは何だったのかを思い出そうと立ち上がっている! 誰もが正義を求め訴えている!」
「そうして人々が、お互いの正義をぶつけ合うことで生じる
「法の統治になど興味のない、犯罪者の君に言われたくはない皮肉だね。それに、暴力によって社会を変えてはならないというのは、今の権力者たちが考えた、彼等にとって都合が良い“ルールの1つ”に過ぎないだろう? それを守ることが、本当に正義であるとは限らない」
「そうかもな」
素直に認めるカナタの態度に、ジェイクは苦笑する。
「君は少し誤解しているよ。私は観客などではない。大衆の正義によって、これから裁かれるこの国。その裁判の判決がどうなるのかを見守る“傍聴者”なのさ。そう。この国に、究極の正義を生み出したかった。その正義が、成し遂げられる様を見たかったのさ」
そして何もかもを、裁いて欲しかったのだ。
息子を殺されたこと。妻を殺されたこと。その原因を作った者たち。その作戦を立案し、遂行した者たち。それを「仕方がないことだった」と認めてしまった自分。真実を隠蔽し続けることで、生きながらえている腐った国。そして……正義を失い、安穏と暮らす国民たちを。
「そうだ。全てが裁かれなければ、私の家族は“報われない”じゃないか……!」
一通りの話を聞き終えたカナタは、それら全てを鼻で笑った。
「…………何がおかしいのかね」
ジェイクは、カナタのふざけた態度で露骨に苛立った。
カナタは肩を竦めた。
「長々と演説するわりに、お前もベイリル大統領と同じように、米国の秘密とやらを具体的に明かそうとはしない。まだ国を守ろうとする意思は残っている。その律儀さに感心したのさ」
「言っただろう。私は愛国者だ。人々がこの国をどのように裁いていくのか。その行き着く先を見守っているだけだよ。万が一にでも政府が、私の要求通りに軍政への移行を認め、予定通りに内戦へ至らなかった場合……君のような危険人物に、
「なら残念だったな。
「…………?」
カナタの発言が、一瞬、理解できなかった。
今、目の前の少年は何と言ったのだ。
カナタは説明してやった。
「歴代の大統領にのみ伝えられてきた、米国の破滅を招き得る情報兵器。それがいつから存在しているのか、詳細は知らないが、誰にも知られてはならない秘密が、現代にまで存在していること自体が奇妙だろう。そんなに危険な秘密であるなら、誰にも伝えずに闇に葬っておくべきだったはずだ。だがそうすることはされなかった」
「……」
「だから、こう考えられるはずだ。その秘密とは、大統領が大統領の職務を遂行する上で不可欠な情報であり、後世に残し続けることが最善だった。大統領なら必ず理解しておかなければならない現実がそこにある。それは今もなお、米国が曝されているであろう“危機的な状況”に関する情報なんじゃないのか」
街灯の乏しい光だけで照らされているカナタは、陰影の多い顔に、不敵な笑みを浮かべる。「結論から言おう。米国はすでに――――“破産状態”にあるんじゃないのか?」
「…………」
ジェイクの肌が粟立った。
堪らず、胸中で叫びを上げてしまう。
体面は冷静さを保とうと努力するが、額からにじみ出る脂汗は、隠しようがない。
咄嗟にとぼけようと、苦し紛れの相づちを打った。
「……面白い考察だ。だがなぜ、そんな突拍子もない推測を考えたのかね?」
「連邦準備銀行の地下金庫へ案内された時、銀行総裁の話を聞いて妙だと感じた。ゾーイの話では、米国の国内には全部で10000トンの金塊があるらしい。その内の8000トンが、ニューヨーク連邦準備銀行の地下に保管されているということだった。だが総裁は、2000トン“しか”保管されていないと言い、事実、空っぽの棚がずいぶんと多い印象だった」
ジェイクの内心の焦りに気が付いているのだろうか。
カナタは余裕の態度で語り続ける。
「この国は、世界中で基軸通貨として使われているドルを自国通貨にしている。米国は、外貨準備として、他国の通貨を持つ必要がない特殊な国だ。その代わりに、ドルの価値を裏付けるものとして、無国籍通貨と呼ばれる“金”を保有しなければならない。その金の保管量が聞いてた話よりもだいぶ少ない。ゾーイの知識が間違っていたとしても、ずいぶんな差異だ」
「……連邦準備銀行はニューヨークだけでなく、米国内の各地にある。たまたまニューヨークの金塊保管量が少なかっただけかもしれないだろう?」
「いいや。あれだけの金塊を保有できる大がかりな金庫が、国内のあちこちに設置できるとは考えにくい。実際にイーグルアイにも調べさせたが、米国で金塊の保有をしている拠点銀行は、フォートノックスと、ウエストポイント。それにニューヨークの3箇所だけだ。ニューヨークはその中でも最大の金庫を持っている。そこに金が少ないというのは、やはり妙だろう。あるはずの金塊は、いったいどこに消えてしまったんだ?」
カナタはベンチに背を預け、膝を組む。ふてぶてしく推論を披露した。
「ためしに時系列にして考えてみたら、全てが繋がった。過去に起きた世界的パンデミックによる大不況の際に、連邦準備銀行は、いつ倒産するかもわからない弱小企業のハイ・イールド債を大量購入して、米国経済を支え続けた。それを推進したのが、ハドソン上院仮議長だ。ハドソンはその後、クランスモア総合研究所の中東支店に“物資”と呼ばれる何かを、大量に密輸した。それこそが、連邦準備銀行に保管されていた“金塊”だったのだと考えたらどうだ」
あまりにも鋭すぎる考察。
思わず、ジェイクは二の句を失ってしまう。
「そもそもドル紙幣とは、実体はただの紙切れに過ぎない。それ自体には何の価値もないが、その紙切れがあれば、等価の金と交換ができることに価値があった」
カナタは、懐からドル紙幣を1枚つまみ出した。
「ドルの価値を裏付けるために必要な金塊。それを米国外に持ち出して隠す理由は何だ? 金塊を守るためだ。では何から守る? ドル紙幣を、金塊に換金しようと銀行へ殺到する人々から守るためだ。ではなぜ、そんな事態が起きるのだと、ハドソンは想定した? 銀行の抱える借金が、返済能力を超えてしまったからだ。おそらくは、大量に購入したハイ・イールド債が焦げ付いて、連邦準備銀行が何らかの破綻状態に陥ったんだろう。借金を穴埋めするため、ドルを大量に刷れば未曾有のインフレ。もはや“ドル紙幣の価値はなくなっている”に等しい」
取り出した紙幣を、カナタはその場に放り捨てて見せた。
「米国は、その事実を隠して誤魔化す選択をした。世界中の決済に用いられている、ドル紙幣の価値の喪失。おそらくそれこそが、
芳しくないジェイクの表情を覗き込み、カナタは、眼光をギラつかせて尋ねた。
「以上は全てオレの推測だ。証拠はない。だが――――どの程度合っていた?」
何も答えられなかった。
何を言っても、この少年には見破られてしまう。その確信があった。
まったくもって、震えさえこみ上げてくる人外の知性である。
遙かに年下の子供と対峙しているはずだというのに、胸中に余裕はなく、まるで強大な相手に立ち向かうような心境である。だが気を取り直し、ジェイクは笑みを浮かべた。
「フン。……今さら、そんな推測が当たっていようが、外れていようが、君たちの側が不利なことに変わりはないさ。外国人の君にとって、この国の行く末など取るに足りないことかもしれない。だが、今の君の立場は米国政府側だろう? 米国社会の腐敗に怒る、圧倒的多数の世論が形成されている上に、政府は最大の弱みを、私に握られている。もはや為す術など残されていないはずだ。今さらここで私を捕まえたところで、それが何の解決になると言うのかね」
「たしかに何の解決にもならないだろうな」
やはり自分の優位が揺らいでいないことを、改めて確信する。
「フフ。大局がわかっていてなお、この場に君が現れた理由を知りたいね。だが、それももはや、どうでも良いことさ。何をするにしても、もう全ては手遅れだ」
ジェイクはコートの裾を翻し、自身の腕時計を見下ろした。
「私が指定した時間まで、残り6分」
米国内戦の引き金が引かれるまで、猶予は微塵もない。
「憐れなものさ。いまだ緊急会見が開かれていないことから見ても予想通り、政府職員たちは自らの保身にひた走るだけで、自分たちが創り出した、歪な社会を省みることなどなかったのだろう。間もなく自動的に、インターネットを通じ、全世界に向けて
「……」
「君の推測が当たっているかどうかを知りたいのなら、その時に自分の目で確認すれば良い。間もなく真実は公開される。この腐った国に下される、裁きの結末と共にな」
ジェイクは祈りを捧げるように、曇天の夜空を見上げた。
1つの星の輝きも見られない、祝福されない空。その重々しい黒の空を背負う都市は、数分後に訪れる新しい世界の気配を感じ、怯えているようにさえ見えた。
ジェイクも同じ心境である。
自身が求めた究極の正義。
それがこれから、世界をどのように変えていくのか。憂うのは当然である。
だが、ジェイクは勝利を確信して告げる。
「さあ、間もなく内戦が始まる。この国は
できることなら、それを家族と共に見届けたかった。
「君たちは敗北したんだ。しかしそれを嘆くことはない。世界はこれから、良い方向へ変わっていくのだから。さあ、せっかくだ。ここで私と共に、この国の終わりを見届けよう」
「――――――――残念だったな。敗北するのはお前の方だ」
そんな言葉を聞くことになるとは、微塵も思っていなかった。
何事かと、ジェイクは再びカナタへ視線を戻す。
カナタの反応は、予期せぬ哀れみの表情だった。
怪訝な顔をするジェイクを見やり、カナタは冷ややかな態度で続けた。
「勘違いしているようだな。お前は致命的なまでに、現状を正しく認識できていない」
「…………いったい何の話をしているんだ?」
意味不明としか言い様がない指摘。
カナタの言わんとすることに、ジェイクは、まるで見当がつかない。
「さっき、ここでお前を捕らえても意味がないと言ったのは“現時点では”という話だ。間もなく状況は一変し、この形成は逆転する。窮地に立たされるのは、お前の方になるだろう」
「……言っていることが、まるでよくわからないね」
「なら、わかるように言ってやる。間もなく、政府を批判している圧倒的多数の世論は逆転し、人々は政府ではなく、お前のことを非難するようになる。お前の切り札である
奇跡のような話だ。カナタたちにとって都合が良すぎる。
それはもはや、妄想としか言えない展開だ。
「……私が長らく
「ああ」
「馬鹿な……! 私はこの場に、データを持ってきていない。いくつかのバックアップを取って、ニューヨーク市内の複数の場所に隠しているんだぞ。しかも、ネットワーク公開に備えて、時限装置に接続している状態でだ。私を捕まえてもデータは回収できない」
「わかっている」
「データの保管場所は部下の誰にも教えていないんだ。君たちが捕まえた手下を尋問したところで、保管場所には辿り着かないぞ。今から探すにしても、明らかな時間切れだ」
「だろうな。だが、お前から切り札を奪うために、わざわざ保管場所を探して赴く必要なんてない。そうする必要がないから、オレはこの場に現れて、ただお前と話をしているんだ」
……不安が生まれる。
ハッタリだとしか思えない。それは普通の相手が言うのなら、そうなのだろう。
だがこうして対峙しているのは“人類史上最悪の天才”ではないか。
ジェイクは、固い唾を苦労して飲み下す。
「どう考えても……君たちが逆転する可能性など皆無に等しい。何を企んでいる」
「別に。オレは何も企んでいないし、何もする必要がない。ただここに立って、お前と話をしているだけだ。それだけで良い」
「……」
「だがそれでもお前は――――これから“敗北”するんだ」
理にかなわないことを言っている。
カナタの言うことを全て鵜呑みにするわけではないが、味方も引き連れず、この場にやって来ていると言っていた。たった1人で現れて、ジェイクと話をするだけで、自分たちの全ての不利を覆してしまえるというのは、想像もつかない。
冗談や酔狂で言っているのではない。カナタの真剣な表情から、それだけは見て取れる。
カナタは間違いなく、何かしらの確信を持って、ジェイクに警告しているのだ。
「……わからない。その自信は、いったいどこから――――」
――――目が眩む。
「!?」
最初は、目眩がしたのかと思った。だがそうではない。
赤い閃光。その眩い光が網膜を焼くように、視界を、赤一色に埋め尽くしたのだ。
理解不能な現象。何の光なのか。ジェイクは慌てて目を擦り、瞬きを繰り返しては、視力を取り戻そうとする。光の出所と正体を探ろうと、懸命に周囲へ目を凝らした。
強烈な眩い閃光は、雷のような一瞬の輝きだったようだ。すでに光量を落としている。
光量を落としたと言っても、周囲の景色は、まるで昼が訪れたかのように明るくなっている。ジェイクの周囲のあらゆるものは、輪郭をハッキリと視認することができた。
まるで、血のように赤い昼だ。
「なんだ……何なんだ、これは……!」
遙か頭上、上空を見上げながら、ジェイクは愕然と呟いた。
赤い、太陽のように眩い光を発する点が見える。それを中心に、空に立ちこめていた雲は円形にくり抜かれ、消し去られていた。大空で、何かが爆発した跡だ。その爆発の衝撃によって、湖面に広がる波紋のごとく、雲は遠くへ押しやられてしまっているではないか。
信じられない光景を目の当たりに、呆けてしまっているジェイク。
ただ涼やかに、カナタが宣告した。
「――――高高度核爆発による“電磁パルス攻撃”」
ジェイクは驚愕する。
慌ててカナタへ向き直り、そしてジェイクは、心底から恐怖する。
背筋が凍り付くほどの冷たい眼差し。血のような赤い光に照らし出され、漆黒の少年は、研がれた氷塊のような目で、ジェイクを見つめてきていた。その頬には不敵な笑みを浮かべて。
何とおぞましい姿だろうか。この世に顕現した悪魔のようだ。
カナタは、困惑しているジェイクへ教えてやった。
「高層大気圏で爆発させた核爆弾は、広範囲に強烈な電磁パルスを放つ。それによって、地上にある電力を使ったインフラや設備は全て破壊される。米軍の計算によれば、ニューヨーク市と隣接する都市の一部を、完全にブラックアウトさせることができるという話だった。見ての通り、この市内における、あらゆる電子機器は破壊されたようだ」
カナタの視線に促され、ジェイクは周囲のビル群を見やる。周囲が明るくなったせいで気付くのが遅れたが、どのビルも照明が消えていて、見渡す限り停電しているように見えた。
いいや。これは、ただの停電ではない。
電力網ごと、地上に存在する全ての電子基板が破壊されたのだ。
「まさか……電力インフラごと、ニューヨーク市の都市機能を破壊したのか!」
震える声で、その事実を口にする。カナタは、そんなジェイクを嘲笑う。
「ベイリル大統領は渋っていたが、まあ、結果として今のところ、人は死んでいなさそうだ。この様子なら、都市機能は完全に壊れただろう。自動車も動かせず、インターネットへ接続できる機器も根こそぎ壊れているだろうな。もちろん、お前の大事な切り札、
堪らず、ジェイクはカナタに向かって喚いた。
「イカレている! まさか
「たしかに、それによって何百人と死ぬかもしれないな」
「それだけで済むわけがない! これからいったいどれだけの犠牲が出ると思ってる! こんな、祖国を攻撃するなど……! こんな蛮行、ますます国民たちの怒りを買うだけだぞ!」
「おいおい。何を“他人事”のように言っているんだ?」
怒り狂うジェイクを馬鹿にするよう、カナタは肩を竦めて言った。
「忘れたのか? アレはオレたちが撃った核ミサイルじゃない。“お前が撃った核ミサイル”だっただろう?」
「………………?」
カナタは、座っていたベンチから腰を上げる。
狐につままれたような顔をしているジェイクへ、やれやれと告げた。
「エリスが、オレの性質を分析していたと言ってたな。ならオレも、お前の性質を分析してやろう。性格は誠実で真面目。そして政治家として演説をすることに慣れているせいだろう。繊細な事案について“婉曲に話す癖”のようなものがある。そこがお前の欠点だ」
言いながらカナタは、ゆっくりとジェイクに歩み寄っていった。
無意識に、ジェイクは後退ってしまう。
「ホワイトハウスへ要求を突きつけた時だ。お前は、ベイリル大統領の周囲に、
「それが……何だと言うんだ……!」
「破滅の鍵というものは、
心底から恐怖した――――。
なんと非道なことを思いつくのだろう。
なんと非情なまでに、卓越した頭脳なのだろう。
カナタが何を言おうとしているのか、ジェイクには理解できた。
「あの時、お前はこう言っただろう? 我々は、今の米国の根本を揺るがし得る破滅の鍵を入手した。それを使われたくなければ国家非常事態宣言を出せ。あの脅迫電話は、もちろん全て録音されていた。悪意ある編集を施せば、お前が米国に対して“核攻撃”をするのだと脅迫したようにも聞こえる。そして実際に核は放たれ、こうしてニューヨークは攻撃されたわけだ」
「……あ……あぁ…………」
「今頃、編集された通話音声は、全米メディアに拡散されている頃だろう。これでお前は晴れて、正義を体現する英雄から、大衆を騙し煽動していた“薄汚いテロリスト”だ」
「ああああああああああああああああああ!」
崩れ落ちるように、カナタの前に跪いた。
そして空に向かって叫んだ。こみ上げる絶望を吐き出すように喚いた。
喉の奥が裂け、血の味が滲み、血管が張り裂けるまで。声の限りを上げて叫んだ。
破壊された。
これまで練り上げてきた計画も。
積み重ねてきた活動も。
何もかも全てを、文字通り完膚なきまでに叩き潰され、覆されたのだ。
たった1つの失言と、たった1手の策謀によって。
叫ぶのを止めると、まるで声と共に、魂まで抜け出てしまったように脱力した。
ただ、煌々と赤く染まる夜空を仰ぎ続け、頬を涙が伝った。
「………………わかっていたさ。私が正義でなかったことなんて」
息子のために、何もしてやれなかった無力な父親である。
息子の死を受け入れられず、無謀なことをして、妻を失った愚かな夫である。
自分勝手な振る舞いで家族を傷つけた。罪深い存在であるというのに、それなのに自身は正しかったのだと思いたかった。だからこそ探そうとしていたのだ。
本当の正義という、ありもしない――――“自分を正当化できる理由”を。
跪くジェイクを見下ろしながら、カナタは告げた。
「正義なんてものは“願望”だ。気に食わないものを悪に見立てて、攻撃することを正当化する身勝手な決めつけだ。法に合致しているか、人道に則しているのかなんて、みんな本当はどうでも良い。自分の価値観と都合を、他人に押しつけたい。オレたちはいつだって、自分と相容れぬ者を“傷つけて良い理由”を探してるだけだ」
「私も、そうだったと言いたいのか?」
「自分の境遇を社会のせいにして、それを罰したかっただけだ。正義を名乗ってな」
馬鹿馬鹿しいほどに、納得した。
だからこそ、言わずにはいられなかった。
「………………矮小だな、私は」
遠い空での核反応が収まり、周囲に暗がりが戻り始めた頃。
しばらくして、遠くから、ヘリのローター音が聞こえてきた。
武装した兵士たちを満載したヘリの編隊が、公園に向かって飛来してくるのが見えている。
軍は、電磁パルス攻撃の影響が及ばない場所に待機していたのだろう。だからこの場には、カナタだけが現れていたのだ。電磁パルス攻撃の影響が少なくなった今のタイミングで、ようやくジェイクを捕らえるため、駆けつけようとしているに違いない。
懸命に国を救おうとした英雄。
だが皮肉なことに、その英雄を救おうとする者はどこにもいなかった。
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