第五章 究極の正義/Apocalypse(1)
世界は何も変わらなかった。
男の人生は変わったというのに。
田舎の運河にかかる大きな鉄橋。行き交う車は少なく、男はその歩道に佇んでいた。そこから見渡す川面は、なだらかに揺らめき、閃光のように輝く赤い夕陽を反射し、煌めいている。
肌寒い日だった。
白い吐息を刻みながら夕陽と向かい合い、長い間、立ち尽くす。
ただ……最愛の息子が死んだ理由を知りたかっただけだ。そうすることが悪いことだとは考えなかった。だがそれによって、妻を失うことになるなんて、誰が予想できただろう。
買い物中の、自動車事故だった。
表向きは、そういうことになっている。
だが男にはわかった。あれは警告なのだ。
――これ以上、関わるな。
真実を探られては都合の悪い、強大な力を持った者たちがいて、彼等は、男の存在を疎ましく思ったに違いない。見せしめに男の妻を暗殺することで、男を恐怖させようとしたのだ。今なら確信できる。CIAの彼女が言っていたように、息子の死には政府の何者かが関わっているのだろう。許せない巨悪が存在するのだ。
だが男は、もう限界だった。戦う気力などなかった。
最愛の者たちを亡くし、これからどうやって生きていけば良い。
もはや守るべき未来も、遺さなければならないものもない。
冷たい頬に、温かい涙の筋が流れた。鉄橋の手すりに、静かに手をかける。
「――この世界は、美しいね」
その時に予期せず、人に話しかけられた。
声は隣からした。まだ子供の、少年とも少女ともわからない声色である。
「どこまでも透き通っている青空。色鮮やかな緑の森。街を茜色に染め上げる、眩い夕陽。探そうと思えば、美しいものはそこかしこにある。ボクはここの景色が好きだよ」
涙を拭い、隣へ顔を向けた。そこには、奇妙な人物が立っていた。
輝く白い髪。性別不明で、中性的な美しい造形の顔。ボクという一人称を使っていることから考えれば、少年だろうか。彼は男の隣で、手すりに寄りかかって夕陽を見ていた。
「こんなにも美しいものに囲まれ、ボクたちは生きているのに、不思議だね。すれ違う人たちは、大抵があまり幸せそうじゃない。誰もが何かに傷つけられていて、少なからず苦しんで生きている。人間が創り出した社会というものは、ずいぶんと窮屈で不条理なもののようだ」
見た目の幼さとは裏腹に、大人びている。落ち着きはらった少年の雰囲気につられてか、男の気持ちも、妙に和らいでいく。男は、ようやく疑問を投げかけた。
「……君は誰だい?」
「ボクは誰でもないよ。ボクのために存在するボクだ」
「……よくわからないな」
「あなたにはボクのことを理解できないし、そうする必要もないよ」
突き放すような言葉だったが、少年は悪びれた様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうだね。今はただ、苦しんでいる人の助けになりたいと思っている、通りすがりだよ。あなたがまるで“身投げ”でもしそうな目をしていたから。気になって声をかけたのさ」
「……」
男が何をしようとしていたのか。少年は察していたようだ。
ただの無邪気な子供ではない。そもそも、この場へ急に現れたこと自体が不自然である。少年が近づく気配を、男はまるで感じなかった。もしかしたら、心霊や悪魔の類いだろうか。
神の遣わした守護天使だとでも言うのか。
「――――政府の不正の真相を探ったせいで、あなたは息子と妻を失った」
「!?」
「大切なものを失って、今は失意のどん底なんだろうね。何もかもに嫌気がさして、今すぐに安らぎを求めたくなる気持ちはわかるよ。けれど、そうすることが何を意味するのか、考えたことはあるのかな?」
嫌な悪寒と汗で、背筋が冷える。
いよいよもって、少年が人外の存在である可能性を考えるようになってしまう。
なぜ、男の事情をそこまで詳しく知っているのだろうか。これは何かの罠なのか。
「…………本当に、何者なんだ」
少年は夕陽を見ながら微笑むだけで、何も答えなかった。
だがやがてポツリと、世間話のように語り始める。
「――“功利の怪物”を知っているかい?」
少年の語り口は、とても穏やかなままだ。
「普通の人よりも、何万倍も幸福を感じやすい怪物がいたとしよう。たとえば1つのパンがあったとする。これを普通の人に与えるよりも、怪物に与えた方が何万倍もの幸福量が得られるだろう? なら、この世の全てのパンを怪物に与えれば、世界の幸福量は最大になる。たとえ怪物以外の全ての人々がパンを得られず、飢え死に、死に絶えたとしてもだよ」
そこまで話したところで、少年はようやく、男の方を向いた。
眼差しは、少しだけ悲しそうに細められていた。
「今なら、わかるはずだ。ほんの一握りの者たちだけが最大幸福を得るために、真実は隠蔽されている。その結果、社会から公平さは失われ、正義もいつしか、人々の心の中から消えてなくなった。ボクたちは、そんな“幸福な世界”に生きているんだよ」
少年は暗に、息子の死に関わった悪党たちのことを言っているのだろうか。
現実が理不尽であることなら、よくわかっている――――。
悪事を働いたわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。それなのに男の家族は、得体の知れない悪人たちの保身のために、命を奪われたのだから。男は、全てを失ったのだから。
「……なぜ、そんな話を私にするんだ」
「あなたなら、この国の有様を変えることができるからさ」
「……」
「ボクにはね。未来を見通す力があるんだ。ボクの予言は絶対さ」
少年の優しい微笑みが、不気味に感じた。
男は頭を振って、少年の言葉を否定しようとした。
「買いかぶりだ。私はこれまでに、何度も誤った選択をした。その結果、息子を失い。そして妻を巻き込み、犠牲にしてしまった。救いようがないほどに愚かな男だ。自分の家族さえ守れない私に、どうしたらこの国を変えるなんて大層なことできる」
「あなたはただ、あなたの目的のために行動すれば良い。そうすることが、この国を変えていくことに繋がっているから」
「私の目的だって?」
「ああ。“家族の死の真相”を知りたいんだろう?」
男の胸中に眠っている願望を、少年は言葉で一突きにしてくる。
それができたなら、どんなに良いことだろう。逡巡していると、少年は捲し立ててくる。
「息子を奪われた。妻も奪われた。あなたは一方的に“略奪”されたんだ。それは着実に、あなたが真相に近づいた結果、起きた出来事さ。彼等は、あなたの存在を恐れたんだ」
「……」
「なぜ、あなたの家族は犠牲にならなくてはならなかったのか。この国は何を庇っていて、誰のせいでこんな事態を招くに至ったのか。誰が、このツケを支払うべきなのか」
「……」
「あなたは、あともう一息のところまで真相に近づいている。なのに、真実を目の前にして諦めようとしている。ここであなたが戦いを降りるなら、“正義”のために殺された家族の死が無駄になるんじゃないのか? あなたたち一家がこの世に存在した理由は、いったい何だったのかな。大切な者たちと育んだ全ての愛しい記憶に、意味がなかったのだと認めるのかい?」
少年は、男の目を覗き込んできた。悪気のない無垢な眼差しだ。
微塵の邪悪さも感じさせず、それと矛盾した邪悪な言葉で確信を告げてくる。
「あなたは“正義”のための戦いを始めた。それによって家族を失った。その戦いを途中で投げ出したなら、それこそ家族の死に意味なんてなくなる。これは、あなたの“家族のため”の戦いになっているんだよ」
「…………」
男は言葉を失った。少年のおかげで、その致命的な事実に気が付いたからだ。
「私は……これから、どうしたら良いんだ」
男は請うように、遙か年下の少年に尋ねた。
少年は天啓を授けるように、答えた。
「あなたが真実に近づこうとしても、それを邪魔する者たちがいる。彼等の力は強大で、あなた1人の力ではどうしようもないだろう。全ての原因は、今のあなたに、真実を知る“権利がない”からだ。だからこそ、発想を逆転すれば良い」
涼やかな口調で、奇妙なことを口にする少年。
だが運命のいたずらなのか、男は、その真意を即座に理解できた。だからこそ驚嘆する。
「……真実を知る“権利がある存在”になれば良いのか」
それは悪魔のごとき知恵。恐るべきその思考を理解し、男は目を見開く。
すでに男の目には、少年の姿が人間には見えていなかった。
人外魔道。あるいは、高位なる何者かが、男に遣わした使者に違いない。
無垢な笑顔の背後から、恐るべき狂気の存在感を放つ少年に、男は畏怖を感じた。
「これからも、あなたの活躍を期待して待っているよ」
少年は笑顔を絶やさず、男に背を向けて去って行った。
遠ざかる背を唖然と見送りながら、男はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。
だがやがて、静かに決意の拳を握る。
「……そうだ。まだ何も終わっていなかった」
何もかも失った。何もかも奪われた。もはや、それを取り戻すことはできない。
それなのに。
「――まだ“理由”さえ知らないじゃないか」
肩を落とし、フラリと、男は歩き出した。
少年とは反対の方向。元来た、薄汚れた街を目指した。
そうだ。まだ誰の罪も明らかになっていない。責任の所在も。何者の企みなのかも。何もかもが隠されていて、何が悪なのか、定かではなくなっているのだ。正義が見えないのだ。
息子も、男も、正義を求め、全てを失った。だからこそ、今さら正義だけは失えない。
正義こそが、男の愛した家族が、この世に生きた証し。
男の暗い決意が、世界の命運を揺るがしていく。
暮れていく夕陽の後に、この国には、深い漆黒の闇が訪れようとしていた。
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