第三章 究極の秘密/The information weapon(7)


▼ Day3 17:00 EST ▼


 連邦準備銀行から少し離れた高層ビル。

 雨の降りしきる屋上には、黒いレインコートを羽織ったアール=レイバースが潜んでいた。

 大型の狙撃ライフルを構え、スコープで賢明に市警たちの包囲網を覗き込んでいる。だが、謎の爆発によって生じた粉塵により、現場の様子は何も見えない。状況は不明だ。

 制御できない事態に焦り、思わず無線機に向かって怒鳴りつけてしまう。

「どうなってるんだ、ルナ! 銀行内の連中と通話ができなくなってるぞ! 映像も完全に途絶えてる! これじゃあ何が起きているのか、まるでわからないじゃないか!」

『はいー、わかってますー! 怒らないでくださいー!』

 無線から返ってきたのは、今にも泣きそうな声の、ルナの返事だった。

『なな、何なんですかー、この日本の情報分析官! こっちのAES暗号障壁が、役立たずの紙っぺらみたいに突破されるんですけど! 全然、ネットワークを奪い返せないですー!』

 レイバースは信じられない思いで、ルナを叱咤する。

「お前は魔法使いウィザードクラスのハッカーだろ! それが、やり込められてると言うのか!?」

『相手が使ってる低軌道衛星の通信をオフラインにしようとしてますけど、CIAの防御システムを利用して、こっちのアクセスをループ処理させてきます。ぐぬぬ……認めたくないけど、この人は私よりも上手。尋常じゃない腕前です! いったい何者なんですか……!』

 無線越しに、ルナが賢明にキーボードを叩く音が聞こえてきていた。

 はたとその音が止まり、ルナはしばらく沈黙する。やがて震えた声で呟いた。

『待って……たしかこの情報分析官のコードネーム……もしかして、あの“虚空の王イーグルアイ”!?』

 その推測が正しければ、状況の巻き返しなど絶望的である。

『民間も軍事も関係なく、各国のあらゆる衛星をハッキングして、世界中の珍しくて可愛い動物画像を集めてたとかいう、あの、わけわからない伝説を持つふぎゃっ――――』

「おい、ルナ! 回線が途絶えたぞ! ルナ!」

 ルナの通信は、唐突に切れてしまう。いくら呼びかけても返事はなく、聞こえてくるのは、周囲の雨音だけとなってしまった。苛立ちを隠しきれず、レイバースは歯噛みする。 

「……いったい何が悪かった! どうしてこうなってる……!」

 イヤホンマイクを床に叩きつけ、それを踏みにじった。

「!」

 背後から飛来してくる微かな異音に気づき、その場に銃を放り出して身を捩った。

 数瞬前までレイバースが立っていた場所を、鋭利なナイフの刃が通り過ぎる。刃は深々と、レイバースの背後のコンクリート壁に突き刺さる。

「……!」

 露骨な殺意を意味する、そのナイフを呆然と見つめ、思わず冷や汗が浮かぶ。

「――――ふーん。今のをかわすくらいには、雑魚じゃないのかー」

 聞こえたのは、若い女の声だった。

 ナイフが飛来してきた方角。いつからそこにいたのか、気が付けば1人の少女が立っている。白いパーカーフードを目深にかぶり、スカートの裾を風にはためかせている。フードの奥から覗く双眸は、銀光を灯しているように薄暗く輝いて見えた。

 レイバースは即座に、腰のホルスターから拳銃を抜き放ち、少女に向けて構える。

「…………誰だ」

 油断なく睨み付けるレイバース。対して少女は、嘲笑を浮かべて返事をする。

「クロードに連れられて、リセと一緒に銀行強盗の現場に来てみたら、なんかボマーの姿を見かけるし。立てこもってる犯人は、遠目にどことなくカナタっぽい奴に見えたし。もしかして、おじさんは内閣情報捜査局CIROと何か事を構えてる人?」

 単純に勘が良いだけとは思えない。事情をほぼ看破しているとしか思えない言動を聞き、レイバースは、少女が敵側の存在であるのだと認識する。

 何も答えない、無言のレイバース。だがその態度には構わず、少女は、レイバースが手放した狙撃ライフルからスコープを外し、それを覗き込んで現場の方を見やった。

「あの爆発、明らかにボマーの仕業だよね。良かったー。リセ、無事だー。もしもリセに怪我させてたら、あの子も殺してやるところだったんだけど、まあ無事だし、許してやるかー」

 少女はスコープを放り捨て、レイバースに向き直る。

「おじさんがどこの誰で、何でボマーたちとやり合ってるのか知らないけどさー。あたしの目が届くところで、あたしの親友の命を狙うなんて、舐めてるよねー。殺してください・・・・・・・って言ってるみたいなもんじゃん」

 自分よりも遙かに小柄で、華奢な体格の少女。だが、ただならぬ気配をまとっている。

少女と対峙していると、レイバースはなぜか、鳥肌が止まらない。長年、戦場を回って培われた本能がそうさせているのだろう。それが今、全力で危険を告げているのがわかった。

 少女の方が“格上”――――その屈辱的な予感。

 生きるために直感を否定することなく、レイバースは、この場から逃げ出すことを考えた。

「たしかお前は……情報によれば内閣情報捜査局CIROの戦闘工作員、ルークだったか。まだ弾を撃ってもいない狙撃手の居所を突き止めるとは、ずいぶんと勘の良い奴だな。状況把握能力といい、なかなか優秀な人材のようだ」

「それ本気で言ってるの?」

 少女、ルークは、馬鹿にして肩をすくめて見せる。

「弾を撃たれてから狙撃手に気付いても遅いじゃん。おじさん、相手を狙う時に殺気出し過ぎだし。そんなんじゃ、1キロ先からだって居場所がわかるんだけど」

「殺気……?」

 オカルトじみた概念を口にするルークを、レイバースは鼻で笑った。

「生憎、数え切れない戦場を渡り歩いてきたが、そんな非科学的なものを遠距離から感知できる人間に遭遇したことはないな。感情を感知できる、超能力者のような奴などいるものか」

「ふーん。あ、そう。どうやら、表社会の“普通の殺し合い”しか経験ない人かなー」

「……何の話をしている」

「この世には、おじさんの知らない暗闇が、まだまだたくさんあるってこと」

 たちまち少女から、おぞましい気配が立ち上った。

 正面に捉えていたはずのルークが、瞬きの後に姿を消した。

「!?」

 一斉に逆立つ産毛。理解するよりも早く、レイバースは獣のような本能だけで、背後に身を反らす。直後、レイバースの顎があった場所めがけて、下方からナイフの刃が突き上げられてくるのが見えた。ルークは一瞬で距離を詰め、死角からアッパーのように、右手でナイフを繰り出してきたのだ。人間とは思えない、常軌を逸した行動速度である。かろうじて攻撃をかわしたレイバースだったが、安堵する間もなく、左腿に鋭い痛みと熱を感じる。

「ぐがっ!」

 下からのナイフ突き上げはフェイントだった。本命は、左手の方に逆手で握り込まれたナイフ。ルークは、レイバースの胸に自身の背を預ける格好で、左手のナイフを腿に突き立ててきていた。深々と肉に食い込んだ刃をねじり込み、さらに傷口を広げて出血を大きくする。

 レイバースは痛みで悶絶しながらも、距離を取るためにルークを突き飛ばした。

 だがルークは、その反応すら予測していたのだろう。突き飛ばされた反動を利用して、その場で倒立前転。素早く振り上げた足。その靴の踵から仕込みナイフを展開し、レイバースの胸を、下から上へ深々と切り裂いた。そうしてルークは、再び距離を置いて対峙する。

 レイバースは、堪らずその場に膝を突く。

 手にした拳銃を撃って、迎撃する隙さえなかった。

 上着ごと切り裂かれた胸からは派手に出血。それよりもずっと痛むのは、ナイフが突き立ったままの、左腿である。苦悶の表情で見下ろし、全身から脂汗を滲ませて呻いてしまう。

「なかなか良い反応。でも動きが教本的だし、軍人かな? それとも元かな? まあ、どうでも良いか。リセを傷つけようとしたんだから、誰だろうと関係ないよ。――――必ず殺す・・・・

 ルークはニタニタと笑んで、苦しみ悶えるレイバースを見下ろしていた。

 一瞬の間に、形勢はレイバースの不利になった。

 この足では逃げることもできなければ、次の攻撃をかわすことすら不可能だろう。

 ルークの動きは、正直なところ目に見えないくらいに速かった。

 気が付けば、左腿にナイフを突き立てられていたと言えるくらいに高速だ。

 化け物――――それ以外にどう表現すれば良いのか。

 文字通り、目で追えない動きをする常識外の身体能力。躊躇など微塵もない純粋な殺意。対峙しただけで「勝てない」と確信させる、異常な存在感。長らく戦場に身を置いてきたというのに、どうやらこれまで、真に恐ろしい敵には遭遇したことがなかったようだ。

 無意識に、手が震えている。恐怖で頭がおかしくなったのか。レイバースは自嘲する。

「……くく。どうやら運が悪かったようだ。おそらくお前、内閣情報捜査局CIROで最強の戦闘工作員と言ったところだろう。そんな奴に、こんなところで鉢合わせるとはな……」

「それは過大評価かなー。だって、あたしより強い人が上司にいるし」

「……冗談じゃない」

 ルークの言っていることが、本当かどうかはわからない。だが事実とすれば、日本の情報捜査機関は、第四執行者フォース・カインドが思っているよりも遙かに手強い逸材が揃っていたことになる。警戒すべきは、エリスの警告していた少年だけではなかった。他も十二分に危険人物ばかりだ。

 このまま内閣情報捜査局CIROの動きを放置しておくのは危険である。

 第四執行者フォース・カインドに賛同して、その理想を実現するために、今日まで活動してきたのだ。

 ブレイカーたちと言い、この少女と言い、それを脅かす可能性があるなら、もっと早くに排除しておくべきだった。計画に利用しようなどと、甘く考えるべきではなかったのだ。

 左腿の傷はしっかり抉られており、痛めつけられた傷口は人体急所の1つだ。出血が酷い。急いで応急処置をしなければ、出血多量で死ぬだろう。もってせいぜい10分だ。

 身体を伝う冷たい雨と共に、流れ落ちていく血を見つめ、レイバースは苦笑した。

「…………こんなに呆気なく、自分が殺される最期は考えてなかった」

「誰でもそうだよ。けれど、みんな呆気なく死ぬんだよ。何の準備もできてない内にね」

 さらなるナイフを取り出し、トドメを刺すべく歩み寄ってくるルーク。

 この少女に拳銃を向けたところで、今さら勝てはしないだろう。無駄な抵抗だ。あまりにも歴然とした力の差を理解しているからか、抗う気持ちは不思議と湧いてこない。

 ふと、レイバースは思い出す。今さら思い出しても意味のない、くだらない噂だ。

「……いつか、どこかで聞いたことがある。都市伝説だと思っていたことだ。どこの誰であろうと、狙った相手を必ず殺す最強の暗殺者集団。あまりにも強すぎる彼等に対峙した者は、睨まれただけで反抗する意思を奪われ、不思議と自らの死を受け入れてしまうのだと」

 その話を耳にしたルークは、途端にニヤけるのを止める。

「まさかお前、あの“殺戮兵団クルセイダーズ”の――――」

 皆まで喋らせず、ルークはレイバースの左目にナイフを突き刺した。刃は一撃で脳幹を貫き、レイバースは即死する。潰れた眼球から血の涙を流し、レイバースは倒れ伏した。

 暗黒の雨天を背負い、沈黙した死者を見下ろす少女の眼差しは、まるで獣だった。

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