第三章 究極の秘密/The information weapon(3)


▼ Day3 15:20 EST ▼


 雨は激しくなっていく。

 リムジンの快適なレザーシートに腰掛けた2人は、向かい合って座ってはいても、視線を合わせようとはしなかった。カナタは車窓を流れ続ける雨滴を見守り、もう一方の人物も、同じように窓の外を眺め続けているだけだ。

 それは奇妙な邂逅だった――――。

 お互いに因縁深い間柄であるというのに、いざ対面しても、会話をすることはない。罵り合うこともなく、非難することもなかった。ただ、ひりつくような緊張感と、不穏な静けさを、互いの間に生み出すのみである。

 どれだけ長い間、その気まずい沈黙が続いた頃だろう。

 車両はニューヨーク市に入り、市内の渋滞に足止めをされ始めた。

 そこでようやく口火を切ったのは、エリスの方からだった。

「君の美徳の1つは、学習能力の高さだと思っているよ」

 言われてカナタは、対面する相手が、自分に視線を向けているのに気が付いた。

「密室で2人きり。ボクは護衛を付けてもいない。なのに、以前、空港で出会った時のように、激情に任せて襲いかかってくることはしないようだね」

 挑発しているのだろうか。だが、カナタは冷淡な口調で答えた。

「……お前の戦闘能力は、おそらく高い。空港でオレたちを単独で襲撃して、護衛官を何人も殺して見せた。うちの戦闘工作員と同レベルか、それ以上の技量だろうと見ている」

「賢いよ。ちゃんと自分の実力と、相手の実力差を把握できているね」

 子供を褒めるかのように、エリスは上から目線の口ぶりで、感心して見せた。

ようやくカナタと会話できたことを嬉しく思い、エリスは機嫌が良さそうに微笑んだ。

「君が日本の刑務所に囚われてから、もう何年も過ぎてしまった。ボクは多忙だったから、会いに行けなかったけれど、ようやくこうして、落ち着いて話ができるわけだね、カナタ」

 国際指名手配の大量殺人犯であるとは思えないほど、穏やかで優しい態度である。

 馴れ馴れしく名前で呼びかけてくる、エリス。

 カナタは冷静さを保つように努めていた。だが瞳の奥には、隠しきれない、ドス黒い憎悪の炎を滾らせている。エリスを睨み付けながら、聞くべきことを問いかけた。

「――お前は、いったい“何”なんだ」

 それを知りたくて。この怪物の脅威から、愛する者を守りたくて。カナタは内閣情報捜査局CIROに入り、今日までの悪夢のような事件と闘ってきた。この敵の正体を探り続けてきたのだ。

「各国に出没し、悪党たちに先端科学技術や知識を与えては、途方もない犯罪者に育て上げ、凶行に走らせる。まるで犯罪界の指導者フィクサー気取りだ」

 エリスは頭を振って、カナタの見解を否定した。

「それは違うよ。ボクはただ人に優しくしているだけさ。たとえ相手がどんな人間であろうと、差別も区別もなくね。君が結果だけを見て、経緯を見ないのは、悲しいかな」

 カナタに理解されていないことを、エリスは本当に悲しく思っている様子だった。

「君が犯罪者と呼ぶ彼等は、みんな今の世界の有様に憤り、苦しんでいる弱い人々だった。ボクは彼等の救いになりたくて。ほんの少し、助力してきたただけさ。君の時も、そうだっただろう? ああ見えて、第四執行者フォース・カインドも苦しんでいる。彼にだって、誰かの救いが必要なんだ」

「……」

 エリスと話していて、カナタが感じるのは……奇妙な相手であるということだった。

凶悪犯とは思えないくらいに穏やかで。嘘偽りなく、気持ちを口にしている。

 そう思わせてくる態度だ。

 悪意も打算も感じられず、異様なまでに善良そうなのである。実態とは裏腹に。

 演技がうまいだけなのかもしれないが……目の前の相手が、各国の捜査機関が血眼で捕まえようとしている犯罪者だとは思えなくなる。調子が狂いそうだった。

 騙されまいと、カナタは眼差しを険しくして続けた。

「お前の言い分はどうでも良い。知りたいのは、こうしてオレの前に現れている理由だ。これまでは、どの事件においても、お前は暗躍を仄めかせるだけで、決して表舞台に現れようとはしてこなかったな。人相も正体も不明のお前を、各国の捜査機関はただ恐れるだけで、追い詰めることなど、できる見込みもなかった。完全に各国の追跡を回避できていたはずだ。それなのに、これはどういう気まぐれなんだ……なぜ急に、表舞台に姿を現した」

「ボクは長らく準備を進めてきた。ある目的の実現のためにね。これまでの努力が実り、ようやく時が来た。もう隠れる理由がなくなったんだよ。そう言えば、納得してもらえるのかな」

「オレはお前について、ある可能性を考えてる」

「と言うと?」

「お前は“本当に”エリスなのか――――?」

 カナタは問いただす。

「エリスの素顔を見た者は誰もいない。だが、行動パターンはわかっている。そのパターンと矛盾した行動をしている時点で、エリスを名乗る偽物である可能性を考えるのは自然だろう」

「なるほどね。それは面白い考えだ。それじゃあ、いったいボクは誰なのかな?」

「さあな。お前が国際指名手配犯のエリス本人なのか、誰にも確かめようがない。少なくとも過去にホムラの前に現れ、神奈川の生物兵器テロ“殺戮の三日”で、まんまとオレをテロリストに仕立て上げたのは、お前の仕業だったと考えている。あの時も、オレを窮地に追い詰め、凶行に走る以外にない状態を作り上げたな。そして今回、大統領暗殺未遂犯というオレの“肩書き”を利用して、またこうして、何かやらせようと目論んでいる。そうなんだろう?」

 カナタの推察に、エリスは感心した。

「やはり察しが良いね。君は説明しなくても、必ずボクの意図を汲んで、ボクが望むように行動してくれる。ある意味で、君こそが世界で唯一、ボクの理解者だと言えるだろう。だから君のことが好きなんだよ。君がいる限り、ボクは孤独を感じなくて済むからね」

 エリスは満足そうに微笑むと、レザーシートの背もたれに寄りかかった。

「ボクが本物のエリスであるのかわからない、か。証明するのは困難だし、証明することに意味がない問題とも言える。君に確信があってもなくても、ボクはボクだからね」

 頭上を見上げ、少し思考に耽った後、エリスは問いかけてきた。

「そうだな。たとえば第四執行者フォース・カインドは、ボクのことを、どう言っていた?」

「……“史上最善の救世主カリスマ”だそうだ。まるでお前が、いつかこの世を救う存在であるような口ぶりだった。お前のせいで、すでに何百万人も死んだと言うのに、大した救世主だな」

「なら、肝心の君は、ボクのことをどう思ってるんだい?」

「報いを受けて、死ぬべき悪党の1人――――オレと同じだ」

 それを聞いたエリスは、残念そうに嘆息を漏らした。

「人と人がわかり合うことは、できると思うかい、カナタ?」

「……」

「昔から誰もが望む願いだ。そうありたいと考える者ほど、そうでない世界の現実に失望し、怒りを感じることだろう。けれど、永遠に続く怒りというものは存在しないんだよ、カナタ。人の心はいつか、憎しみ合うことに疲れ果ててしまう。ボクと君の関係もそうさ。君が過去に感じた怒りや悲しみは、やがて薄れて霧散していくだろう。君がそう望まなくてもね」

「何が言いたい」

「赦して欲しいのさ。ボクは君に、好きになってもらいたいから。ずっとそう願ってきた」

 ……何を考えているのか、わからない。

 なぜ、こんな話をするのか。なぜ今さら、カナタの恩赦を求めるのか。ただただ、そう告げるエリスの表情は悲しそうであった。まるで本音を口にしているかのように。

 しばらく2人の間に、会話は生じなかった。

 やがて車は、ニューヨーク市内の、ある建物の前で停車する。 

「さあ、着いたよ」

 そこが終着点であることを、エリスが告げた。

 カナタが車窓から外を見やると、大理石を積み上げた、城のような建造物がそびえていた。

 周囲をモダンな高層ビルに囲まれているのに、そこだけは歴史を感じさせる、旧い建築に見える。ルネサンス様式が施された窓や入り口の扉。ほぼ、街の1ブロック分の敷地を占有している、5階建ての建物だ。窓には鉄格子がはめ込まれており、要塞のような圧迫感があった。

 そこは、リバティストリート。ニューヨーク連邦準備銀行ビル――――。

「元々、ここへ来るつもりだったんだろう? だから、連れてきてあげたのさ」

「……ここでオレに何をさせるつもりだ」

「君ならすぐにわかる。そして君は、必ずボクの願いを叶えてくれる」

 エリスは穏やかに微笑みかけてきた。

 車の運転手が、後部座席のドアを開けた。カナタに、降車するよう促している。

「これからここで何が起きるのか。君が何を選び、何を選ばないのか。ボクにはすでにわかっている。優れた知性とは未来を見る力に等しい。君はいつだって、ボクの期待を裏切れない」

 エリスの言葉を背に受け、カナタは雨の降りしきる大都会の路上へ降り立った。

 運転手はカナタにイヤホンマイクを手渡し、それを耳に付けておくように指示した。そうして恭しく一礼をすると、後部座席のドアを閉め、運手席に戻ってエンジンをかける。そして車は、エリスを乗せたまま通りの向こうへ去ってしまった。カナタはただ、それを見送る。

「……奴は、オレの性質を見抜いている、か」

 白い吐息をこぼし、呟く。

 この悪夢のような現実に立ち向かうのだ。

 目の前に立ち塞がる、絶望のビルへ向かって歩み出す。

 冷たい雨に濡れながら、今はただ、待ち受ける地獄の中へ飛び込むしかない。

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