第十三章 心に宿る思い
第105話 トルテさんの覚悟
――二日後、早朝
自室でコナサの森への行き支度をしていると、ノックの音が響いた。
「うん? どうぞ」
「ごめんね、邪魔するよ」
「トルテさん……?」
トルテさんは扉の前で、とても柔らかな表情をしていた。
窓から訪れた朝日が照らし出す光と相まって、彼女は菩薩のような雰囲気を纏う。
「どうしたんですか、こんな朝から? 今日は朝早いから朝食は抜きで構わないですよ」
「ふふ、食べ物の話じゃないよ。私の母。柊アカネの話をね」
「…………」
「その様子だと、知っているんだね。母が異世界から来たことを?」
「はい」
「そう……」
トルテさんは短く言葉を漏らし、俺の姿を丸ごと瞳に映し込む。
「ヤツハ、あんたもそうだね」
「はい」
「おそらくだけど、記憶喪失ってのは嘘だね?」
「……はい。それについては、あの」
「いいよ、別に責める気なんてないから。知らない世界に来たら警戒くらいするさ。この世界のことがわからないから、怪しまれないように記憶を失った振りをしていたんだろう?」
「はい。すみません、騙すような形になって」
「だから、それはいいって。今日はそんなことを言いに来たんじゃないから。これを渡しね」
トルテさんはエプロンのポケットから何かを取り出して、俺へ手渡した。
「こ、これは!?」
「母が愛用していたものだよ。これがあれば、コナサの森のエルフたちも素直に頼みを聞くだろうさ」
「柊アカネが愛用していた……だけど、いいんですか?」
「どうしようかと、悩んだ。私の心はアクタ、ジョウハク国にある。でも、私には異世界人の血が混じっている。マヨマヨの襲撃以降、それを誰かに知られることを恐れていた。知られたら、糾弾されるかもしれないってね」
「トルテさん」
「責められるのが私だけならいい。でも、ピケがそんな目に遭ったらと思うとね……」
「いえ、当然の気持ちだと思います。でも、なら、どうして?」
「ふふ、こうも考えたんだよ。この街のためにしてあげられることがあるのに、指を咥えて見ているだけでいいのかって」
トルテさんは両手で自身を抱きしめる。
ピケを愛する心と街を思う心が、苛烈な天秤となって彼女を苦しめているみたいだ。
「街は大切さ。でも、ピケも大切……だけど、ピケが大好きな街を見捨てるようなことはできない。母として、あの子が悲しむような真似はできないってね。だから……ごめんなさいね、もう少し早く決心できればよかったんだけど」
「いえ、トルテさんの勇気と愛に敬意を表しますよ」
「やだね、そんな大仰な。母の形見は、役に立ちそうかい?」
「はい……でも、これは使うわけにはいけません」
「どうして?」
「たしかに、これを使えば、クレマたちはすんなり話を聞いてくれるでしょう。でも、俺は、俺たちはみんなの協力を得て、事を成そうとしています。それを
「……そうかい。そうだね……そのとおりだよ。ふふ、全く、私ってば、余計なことを。焼きが回ったかね」
「いえ、そんなことは。むしろ、トルテさんの思いを汲めなかった俺の方が悪いわけで」
「ヤツハ。あんたは本当に優しい子だよ。ありがとう」
「そんな……」
俺はトルテさんから受け取った形見に目を向ける。
(それにしても、とんでもないモノが形見だな。ところどころに傷がついてる。血の跡も……)
形見には激戦の歴史を綴る跡が残る。
俺はトルテさんに形見を返そうとした。だけど、その途中で手を止めた。
「あ、どうしよう?」
「ヤツハ?」
「あ、あの~、万が一、交渉が駄目だった時の切り札に、使っていいですか?」
「……ふ、ふふ、あはははは、本当にあんたは面白い子だよ。ちゃっかりしているというか」
「あ~、すみません。なんか、今までの流れひっくり返すみたいで」
「いいよ、いいよ、そっちの方があんたらしい。神妙さなんか似合わないよ。それは好きに使いなさい。エルフたちにそのままあげたっていい。私が持っていても仕方ないからね」
「え、形見なんでしょう?」
「母の品は捨てるほど地下の倉庫にあるから」
「捨てるほどって……」
「母が店をやってた頃は店に自分好みの服を並べていたんだけど、全く売れなくてね。母が使っていたのを含め、在庫がたくさんあるんだよ」
「いやいやいや、在庫と形見は別物でしょう」
「まぁまぁ、一番大切なものはちゃんと残してあるから、大丈夫だよ」
「それは?」
「血染めの木刀」
「えっ!?」
「はは、冗談だよっ。形見は気にしなくていいから。ヤツハなりエルフなりが気に入ってソレを使ってくれるなら、母も喜ぶだろうしね」
「う~ん、そういうことなら、大切にお預かりします」
「ああ、ありがとう」
トルテさんは礼とともに部屋を去っていく。
俺は大切な彼女からの預かりモノを一度両手で握りしめて、スカートのポッケに忍ばせた。
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