1-3 エナの港街
シャーリーリとザリクがミウの村を船で出て、イーヤ国本土にたどり着いたのは夕方、薄暗い時間だった。シャーリーリは海風でベールをつけていない髪の毛が踊る違和感に困惑しながら、ザリクの肩の上に顔を乗せ、イーヤ国の貿易拠点と聞くエナの港街を眺める。
エナの港街はとても栄えているように見えた。いまイーヤ国本土南方では、エナの港街を中心に経済が回っているらしい。もっとリサーチしておくべきだった、とシャーリーリは商人らしく悔しく思う。アリラヒソプ葡萄酒貿易社ではイーヤ国の会社とは取引をしていなかったので、イーヤ国についてシャーリーリにはぼんやりとした、閉鎖的で葡萄酒を好まない国、という印象しかなかったのだ。葡萄酒以外のものを高値で買ってもらえたかもしれないのに、とシャーリーリはがっかりして、いま自分はアリラヒソプ葡萄酒貿易社の社長でなくただの異邦人なのだと思いだす。
ザリクに背負われて移動するシャーリーリを、エナの港街の人たちは不思議そうに見ている。ザリクは背中から、翼を生やして空を飛んだときと同じようにもう一組腕を生やしてシャーリーリを背負い、空いた手にシャーリーリの義足とカバンを持っている。ちょっと、いやだいぶ異様な見た目と言えた。それはシャーリーリも自覚していたが、ザリクとしては当然のことらしい。
シャーリーリはザリクに、「まずはお方さまの御屋敷を探さねばなりませんね。どこにお住まいか、お前は分かりますか?」と訊ねた。ザリクは歩きながら、「わかりません」と答えた。
この賢いオートクルスが知らないのか、とシャーリーリは地味にショックを受けた。まあ、ザリクが製造されたのはおそらく西方世界なので、仕方のないことかもしれない、とシャーリーリは思った。西方世界の人間にとって、イーヤ国は「うんと遠い異教徒の国」くらいの認識だからだ。
実際風習や文化はずいぶん違うようだ、とシャーリーリは周りをみて考えた。なんでも華美になりがちなエルテラでは見ないような、おどろくほど質素な作りの屋台で食事を出していたり、なにやら複雑な絵の描かれた魔除けの札が安価で売られていたり、シャーリーリの見たことがないものがたくさんある。
それでも国策として普及させようとしている、とミウの村の老婆が言った通り天球盤は普及しているらしく、なにやらスープにフワフワしたものの浮いた料理を売っている屋台では、店主が天球盤を使ってフワフワしたもののゆで時間と在庫を管理するのが目に入った。
同時に、シャーリーリの腹が盛大にぐうと鳴った。聞き込みのついでに夕飯にしよう、とシャーリーリはザリクに言ってから、ザリクが日光で動くオートクルスであることを思い出す。
屋台の椅子に降ろしてもらい、シャーリーリは、「その料理を一人前ください」と、なるべくゆっくりかつはっきり店主に頼んだ。前金制のようで、財布にエルテラとメダルマの銀貨しか入っていないことを思い出したシャーリーリは、とりあえずカバンから財布を取り出して、ほかの客が支払っている銀貨と同じくらいの重さの銀貨で支払っていいか、と店主に訊ねた。
「外国の銀貨は珍しいからおまけするよ」
店主はほがらかにそう言った。シャーリーリはエルテラの銀貨で支払うことにした。エルテラの銀貨のほうが、メダルマの銀貨より純度が高いからだ。
シャーリーリのまえにスープ料理が置かれた。ふわふわは隣の客よりちょっと多い。
シャーリーリはふわふわを匙で崩して口に運んだ。魚のすり身と玉子を混ぜて茹でたものだ。口のなかでそれはくしゃりと溶けて、まるで空気を食べているみたいだ、とシャーリーリは思った。しかし、空気だけでなくしっかり旨味も口の中に残る。スープは魚の出汁で、まろやかだった。シャーリーリの見たことのない、辛みのある野菜を刻んだものを薬味として乗せてある。
シャーリーリはその料理に頬をゆるめながら、肝心なことを店主に訊ねた。
「お方さま、という方がいらっしゃると聞きました。異国の品を好まれるとか。どうすればお目通りかないますでしょうか」
「お方さまかい? お方さまはちょうど、このエナの街の別宅にいらっしゃるよ。若大将さまとこっぴどい親子喧嘩をやらかしたそうでね。それに合わせて来たんじゃないのかい?」
シャーリーリはミウの村の老婆に心から感謝した。
「いえ、わけあってミウの村にたどり着いて、そこからエルテラ……この銀貨を作っている街に向かいたいんです」
「あんたもしかして、うわさの難破船に乗っていたのかい? ミウの村の浜にたくさん死人が流れ着いたっていう……助かった人はいなかった、って話だったんだが」
店主は天球盤をシャーリーリに見せた。ニュースのページだ。そこには、少女のころ覚えたイーヤ国の文字が並んでいて、おぼろげな記憶を手繰りながらひとつひとつ単語を追って、そのニュースを伝えているのがエルテラでもおなじみの世界規模のメディアであることが分かり、そしてそのニュースはカイリオン号の乗客がすべて死んだ、と伝えていた。
シャーリーリは、すでに死んだことになっているのだ。おそらく実家のあるエルテラでも、会社のあるメダルマでも。
その事実に愕然としながら、シャーリーリはスープ料理を食べた。もうほとんど、味なんかしなかった。
それを食べ終えて、シャーリーリは呆然と、無言で空になった椀を眺めていた。店主が、
「お方さまにお会いしたいなら、お屋敷まで案内しようか?」と、心配そうにシャーリーリに声をかけた。シャーリーリは顔を上げて、
「そうですね、悲しんでいてもしょうがない。案内をお願いします」と、頑張って笑った。
どうやら屋台の店主はきょうの稼ぎに満足がいったらしく、屋台の店主は客のいなくなった屋台を手際よくたたんだ。またザリクに背負われたシャーリーリを、店主は親切に案内してくれた。白い壁の大きな建物が目に入って、シャーリーリは「あれですか」と店主に言った。
「そうだよ。お方さま、毎日女中とゲームをしているそうだから、たぶん退屈なさっておられるはずだ」と、店主は笑った。そこで店主と別れて、シャーリーリは屋敷を見上げた。
門の前にはふたりの番人がいて、シャーリーリの前で手にしていた槍を交差させて、
「何用か」
と訊いてきた。シャーリーリは、
「お方さまにお目通りしたく存じます。わたしはシャーリーリ・イレイマンと申します。これはオートクルスのザリク。わたしはエルテラの出で、メダルマで商売をしていたものです」
そう言ってシャーリーリは番人にメダルマの銀貨を渡した。こういう権力は、だいたい袖の下に弱いものだとシャーリーリは知っていた。シャーリーリは愛らしい若い女だが、したたかな商売人だ。
シャーリーリがアリラヒソプ葡萄酒貿易社の商売をうまく進めるために、公権力に金を渡したことは一度や二度ではない。いまでは、西方ルルベル教皇直属のセレメデクラム枢機卿という強力なスポンサーもあるほどだ。ズブズブの関係とはいわないが、そのおかげで、いま世界中の西方ルルベル教徒が飲む葡萄酒は、だいたいアリラヒソプ葡萄酒貿易社のものだ。
番人は顔を見合わせて、天球盤をいじった。すぐ女中らしい女が現れ、シャーリーリとザリクを通してくれた。特にボディチェックもなく通されたことに、シャーリーリは驚いた。どうやらこの土地は、とても治安がいいらしい。エルテラやメダルマではちょっと裕福な人に会うだけでも武器はないか確認されたものだ。ましてや国の半分を治める権力者の母親に、なんのチェックもなく通されるのは驚きだ、とシャーリーリは思う。
奥に進む。エルテラの人間と違いみな靴のまま屋敷の中を進む。なにやら笑い声が聞こえた。
「ほおれ、まぁたわらわの勝ちじゃ。みな弱くてつまらんのう」
どうやら本当にお方さまという人はゲームが好きなようだ。先を行く女中がドアを開けると、元気のよさそうな中年女性の声で、
「どうした? 番人に呼ばれたのではなかったか?」と、女中に声がかけられた。
「お方さまにお目通りしたいという、異国のものが来ております」女中はそう答えた。
「ほう。それは珍しいことじゃ。通しなさい」
女中が道を開け、ザリクは歩いていく。部屋に入ると、やわらかな照明が点されていて、どうやら照明に使われている油は香油らしく、いい匂いがする。奥を見上げると、髪をとびきり複雑に結い上げて、一目で高価なものと分かる装束に身を包んだ、中年ながら生き生きと美しい女性が、ゲームの盤を挟んでシャーリーリを見ていた。その視線はとてもまっすぐで、好奇心と仕事上の興味が混ざったような印象だった。
ザリクはシャーリーリを床に降ろして、シャーリーリの横に正座した。
「初めまして。わたしはシャーリーリ・イレイマンと申します。こちらはオートクルスのザリクです。わたくしどもの窮状を救っていただいたく、お目通りしたいと申し出ました」
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