4.




 今日もいるべき場所から脱走してきたのか、薄い水色の病院着姿の彼女は傘も差さず、合羽のようなものも着ず、しとしとと降り続ける雨に打たれながらじっと紫陽花を見つめていた。

 しばらく降っていなかったせいで雨具の持ち合わせがないのは私も同じだ。

 二人して抗わず、空からの涙を浴びる。

 しとしと静かだった雨がさあさあと音を立て始め、まるで一週間分の雨を降らせるかのように雨脚を強めていく。


「ねぇ」


 いつから私のことに気付いていたのか、彼女は植え込みの前でしゃがみ込んだまま顔だけこっちに向けた。白い顔に濡れた髪が張り付いてしまっている。二人してすっかり濡れ鼠だ。


「やぁ。久しぶり」


 ああだこうだと考えた挙句、結局そんな無難な言葉しか出てこなかった。

 彼女は相変わらずのぼやっとした光のない目でこちらを見ている。

 この間は植え込みに寝転がっていたせいで泥と紫陽花の花弁にまみれていて気が付かなかったけれど、よく見ると、病院着から覗く腕には注射針の痕が数え切れないほどにあった。この間自分で打っていたペンタゾシンの注射器のことを考えると常用しているんだろう。


「りゅうとうこうそう、あったでしょ」

「……あったね」

「わたしの、りょうしん。あれでしんだんだって」


 彼女が口にした言葉は随分と唐突で、私は一瞬固まってしまった。

 『龍頭抗争』とは、ヨコハマ裏社会史上最多といわれる死人を作り上げた地獄の八十八日間のことを言っている。

 私も当時はポートマフィアの一員として行動していたからよく憶えている。

 あらゆる組織を巻き込んで吹き荒れた血嵐。

 恐らく、誰にとっても苦い思いが残る殺し合いだった。

 血で血を洗う異能同士のぶつかり合い。あちらこちらで響く発砲音。爆発音。鳴り止むことのない銃撃戦。

 当時の事を思い出しかけ、視界に入った雨水を払うついでに強く、何度か瞬きし、苦い記憶を彼方へと放り出す。

 彼女はぼんやりした顔のまま、ようやく雨を浴びて少し元気になったように見える紫陽花の花を指先で撫でた。「わたしも、まきこまれた。らしいの」それで、自分のことをまるで他人事のように話すじゃないか。


「……憶えていない?」

「なにも。のうに、そんしょうが、あるとか」


 なるほど。それで色々と得心が行った。

 注射の痕が消えないうちにまた注射を打つ、それがペンタゾシンだと言うならば、彼女の受けた傷というのは……。

 考える私を前に彼女はフラッと立ち上がると、フラフラと頼りない足取りで歩き出した。また紫陽花巡りだろう。

 そのどうにもぼうっとした顔と、この世にいる実感がないかのようなぼんやりとした足取りと雨に打たれるがままの姿は、私にある予感を抱かせるのに充分だった。

 …………これまで考えないようにしていたけれど。




 彼女ならば。

 私とともに、

 心中してくれるんじゃないだろうか?




(何も憶えていないという事は、生きる意味がないのと同義だ)


 とびきり美人とはいかないが、その儚さとこの世から乖離した様は、生きているより死んでいるのが似合っている。

 雨のせいで服も髪も肌に張り付いて鬱陶しいし、目に見える世界の全てが湿り気を帯びているのに、異様に喉が渇く。

 ごくり、と喉を鳴らして唾液を飲み下す。


 ねぇ、私と一緒に死んでみないかい?


 そう言ったら彼女はなんと言うだろうか。

 考え、頼りなくフラつく細い背中に口を開きかけた私の視界の端から黒塗りの高級車が滑り込んできて、公園の入り口で停まる。

 なんとなく憶えのある車に嫌な予感がして足を止めると、後部座席のドアが開いて、まず臙脂色の傘が咲いた。それで出てきたのは見たくない顔ナンバーワン。ポートマフィア幹部が一人、中原中也だった。

 


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