2.
人の目を気にするということを知らない彼女は、泥と紫陽花の花弁にまみれた病院着のままフラフラと紫陽花の植え込みを彷徨いまくった。
道路のそば、公園の花壇、人の家で栽培された少し珍しい紫陽花………とにかく紫陽花がいいらしく、それ以外の花には見向きもしない。
洋でまとめられた家の庭に美しい薔薇の生垣があるのには目もくれず、その向かいにある野生の紫陽花をしゃがみ込んでしげしげと眺めている。
紫陽花巡りに付き合う私も物好きだが、彼女という人間もまた物好きだ。
紫陽花に飽きるということを知らない彼女は、しとしとと小ぶりだった雨がさあさあと降りかかるようになっても、それで病院着が透けようとも構う様子がなかった。
この世にいる人間が私だけなら、とくに問題はないけど。この世は人間に溢れているわけである。つまり、人の目、がある。
見かねた私は自分の黄色のレインコートを彼女の頭に被せた。
「ほら」
「いらない」
「着なさい」
「いらない」
私がレインコートを被せようとし、彼女がそれを押しのけ、なんとか着せようとし、彼女は逃げようともがく……。
そんなことを五分も続けて、そのことに飽きたらしい彼女はまた紫陽花を眺め出したので、その間にちゃちゃっとレインコートの袖に手を通させファスナーの金具を胸元まで引き上げる。よし。
ここまで紫陽花にしか興味の視線を送ってこなかった彼女が、ふと、今気付いた、とでもいう不思議そうな顔で雨に打たれる私を眺めて小首を傾げた。光のない濁った瞳がぼんやりと私を見ている。
「そういえば、あなた、だれ」
………ものすごく今更なことを言うなぁ。
別に、隠す必要はないけれど、何となく、私は彼女とは距離を取るべきだろうと予感していた。「誰だっていいだろう」肩を竦める私に彼女は何も言わない。
こういった人間は命に対して希薄だ。
呼ぶ声があればフラフラとそちらへ行き、そのまま崖から身を投げるような。川で子犬が溺れていたら、それが増水した川だろうと無謀にも飛び込んで助けを試みるような。そんなことを平気でするような。そういう頼りなさと儚さでできている砂糖菓子みたいなもの。噛んだらくしゃっと崩れて溶けてそれでおしまい。
そういう儚さを遠ざけたいとか、自殺が趣味の私に言えたことじゃないのにね。
灰白色の空に少し重たい色の灰色が混ざり始め、ゴロゴロと低い雷鳴が鳴る。
雨ですっかり濡れそぼった私は、彼女が大通りに咲く紫陽花を眺めている間にコンビニに入って黒いレインコートを購入。それから気付いてミネラルウォーターのボトルを二本買った。湿度と気温がある日は忘れがちになるけれど、水分補給はしなくては。
コンビニを出ると、彼女のそばに複数の人間がいた。私に彼女の所在について尋ねた彼らだ。二人が彼女の両脇を抱えて逃走を阻止し、一人が電話をかけている。
今日の脱走からの紫陽花巡りに満足しているのか、それとも違う理由からか。彼女は大人しく捕まっているようだ。
そろそろ紫陽花巡りにも飽きていたところだったから、このタイミングでのお迎えはちょうどよかった。このまま離れれば、あのときすっとぼけた私のこともバレずに済むだろう。
私は他人のフリでレインコートのフードを目深に被り、水のボトルが二本入ったビニール袋を揺らしてその場を離れた。
最後にチラと確認した彼女がこちらに顔を向けて何かを言う。
たすけて
唇の動きで読み解いた言葉に、私の足は一瞬止まり。その音なき声に気付かないフリをする。
じゃあねの意味を込めて片手を振り、今度こそ、私はその場を離れた。
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