1.




 フラッと、何となく。そんな気分だったから、梅雨といえば思いつく紫陽花を手に友人の墓を訪れ、紫陽花の花束を置く。


「やぁ。ちょっと久しぶりだっけ」 


 苔なのか緑っぽく色がついている墓石を指で払い、気持ち綺麗にしておく。「私の方は変わりないよ。相変わらずだ」返事がないことは分かっている。気分の問題だ。今日の私はこうやって物言わぬ墓石に語りかけたいのだ。

 梅雨入りしたヨコハマは今日も今日とて小雨が降っていて、これで三日続けてしとしとと静かに雨が降り続く天気となっている。

 青空が姿を消してまだ三日目だというのに、気分は陰鬱だ。

 何故って、首に包帯を巻くのを躊躇うくらいの湿度が世界に満ちていて、晴れることがないから。湿度に気温が足されて気分はもう最悪だ。

 あと、純粋に傘を差すのが面倒くさい。次から外に出るときはレインコートにしよう。

 避けられなかった過去。私の人生最大の失敗の象徴である墓石を撫で、しゃがみ込んでいた姿勢から立ち上がる。

 何にも感動することがなく心を動かすこともない、友人、と呼べる存在を得る前の私は幸せだったな。こんな喪失感で胸を満たすこともなかったのだから。

 我ながら阿呆だなと思う思考を丸めてゴミ箱に放り込み、歩いていると、道端にも紫陽花が咲いていた。

 つい今しがた友人の墓石に捧げてきたものとは違い赤い色をしている花弁を何気なく眺め、アルカリ性なんだろう土に視線を落として、軽く目を見張る。

 紫陽花の中に人の足がある。


(死体か?)


 第一発見者とか面倒だな、嫌だな、でも無視するのも……と仕方なく人の足をつつく、と、引っ込んだ。「お」良かった。死体ではないようだ。面倒事に巻き込まれずに済んだ。

 さて、それじゃあ何故紫陽花の植え込みに人の足があるのかという問題になるわけだけど。

 注意深く紫陽花の根元を観察すると、どうやらその人は紫陽花の葉と花に隠れるようにして寝転がっているようだった。

 一体何故そんなことをしているのか、疑問に思う前に、バタバタと慌ただしい感じで複数の人間が私のところに走り寄ってくる。


「すみません!」

「はい」

「この人見ませんでしたかっ」


 それで突き出されたのは携帯で撮られた写真。女性のようだ、ということくらいしかわからないような下手くそなブレブレの写真だった。

 その時点で合点はいったが、面倒だったので、私は鮮やかな笑顔と「見てませんねぇ」という言葉でその追及を一蹴した。

 彼らは私の返答に期待はしていなかったのか、どうしようとか、病院に連絡しようとか、ああだこうだ言いながら小雨の中を慌ただしく去っていく。


「……行ったようだけど」


 紫陽花の植え込みに寝転がったままの相手にそう声を投げかけると、ガサ、と葉が揺れた。

 アルカリ性の濡れた土と紫陽花の花にまみれた女性がのそりと起き上がって植え込みから出てくる。病院着と思しき薄い色の服が泥と花弁だらけだ。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 その格好と『捜されている』という事実を思えば、入院患者の脱走、なのかもしれない。

 だけど私は良い人ではないので、この珍事を楽しむことこそすれど、清く正しいことをしようだなんて思わない。

 彼女はおもむろに病院着の胸元に手を突っ込むと、隠していたらしい注射器を取り出した。中には薬剤が入っている。

 躊躇うことなく自分の土まみれの腕に注射する姿を眺め、目を細くして注射器に印字されたラベルを読む。


「…それは自分で打っていい薬かい?」

「しらない」

「そう」


 ペンタゾシン、と記されているソレは、試したことがあるから知っている。

 アメリカでは快楽目的で乱用が広まった鎮痛剤で、日本では術後や癌性疼痛の緩和目的で使われたりする。

 空になった注射器を病院着のポケットに押し込んだ彼女は、ぼやっとした顔のまま紫陽花を眺め、車道を挟んだ反対側にも紫陽花があることに気付くとフラッとした足取りで歩き出した。

 そのまま一人で行かせたら車に撥ねられそうで、事件事故の第一発見者や目撃者になりたくない、面倒事を抱えたくない私は溜息を一つ。

 それから、仕方なく彼女の斜め後ろについて歩くことにした。


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