第9話 悪役令嬢とネル婆様
「地理?」
「はい。わたくし疑問ですの」
エカテリーナの前には、大きな地図を抱えたミルティシア・サリュガーニャ公爵令嬢。
彼女はテラスのテーブルに地図を広げ、世界地図と呼ばれるモノに疑問があるのだという。
「これだと大きな大陸の中心に大きな樹海があり、それを囲むように大小七か国がございます。でも本当に、世界にはこの大陸しかないのでしょうか?」
ミルティシアの疑問は真っ当なモノだった。
この大陸の人間であれぱ、誰しもが一度は疑問に思う事。
何故なら、この大陸を囲む大海原を航海した者は誰もいないからだ。
旅立つ者はいた。しかし、誰一人として戻っては来なかったのである。大陸を囲む海は、沖にいくほど狂暴な海獣が跋扈しているから。
大陸近辺は穏やかなものだが、離れれば離れるほど海獣は驚異を増す。まるで我々を閉じ込めているかのような錯覚すら受けるほどに。
エカテリーナは侍女にお茶の用意を頼み、ミルティシアと同じテーブルについた。
エカテリーナは地図を指差し、この大陸の近辺は穏やかな海だが、沖に行くほど危険な海獣が蔓延り、渡る事が不可能なのだと説明した。
「つまり、この大陸以外は確認されていないと言う事ですのね」
「そうね。他に大陸があるかもしれないわ。でも誰も見た事はないの」
広げられた地図には中央に大きな大陸があるのみ。
中心に大きな樹海を持つ大陸は斜めに巨大な山脈があり、樹海から南東に走る山脈が我が国の背後を守っている。
王都はその山脈に沿って作られ、隣国に接する国境一帯をハシュピリス家が守っていた。
その領地の海側にあたる所がエカテリーナの荘園である。
社交界デビューした祝いに分け与えられた個人の財産。エカテリーナの死後は再び辺境伯家に返還される土地だ。
開拓が上手くゆき、それなりの港町や村が出来上がっている。
「わたくしの荘園が此処にあるのよ。長期休暇には何時も旅行に行くの」
「素敵ですわ、わたくしもデビューしたあかつきには荘園を頂く事になっておりますのっ。御姉様の領地を、是非とも見学してみたいですわっ」
瞳を輝かせて両手を結ぶ幼女に、エカテリーナがふわりとした眼差しで微笑む。
「よろしくてよ。今年の冬は里帰りに御一緒いたしましょう。お家の方にキチンと許可を頂くのですよ?」
「はいっ、ありがとうございますっ」
無邪気に喜ぶミルティシアを見送り、エカテリーナは複雑そうに顔をしかめた。
四六時中ちょこまかとまとわりつかれ、いささか疲れ気味である。....まあ、可愛い事は可愛いのだが。
作法や教養は見違えるほど上達したし、最近は勉学にも力が入っているようだ。思わぬ質問は、これが初めてではない。
専任の教職員がいるのに、何故わたくしに質問するのかしら?
疑問に思うエカテリーナだが、本人は自覚していないが、実のところ彼女の知識量は並みではない。
辺境伯家は政治的判断や独断専行、王家の許可を必要とせず領地の兵士を自由に戦わせる権限を持つ家である。
当然、精密で豊富な情報量と高い知見が必須となり、家人の一人であるエカテリーナにも共有されていた。
下手な王族....いや、国王や王妃らよりも、遥かに情勢や歴史を深く理解する一族なのである。
首を傾げるエカテリーナだが、辺境伯家の特異さを理解していないお馬鹿さんだった。
ミルティシアの質問に右往左往する教師ら一同、涙目である。
ミルティシアも、打てば響くエカテリーナに質問するのは当然だ。問えば必ず答えが返ってくるのだから、すでに何度も教師を迂回してきた彼女が、無駄な迂回をやめて直接エカテリーナへ質問にいくようになるのも無理はない。
そんなこんなで冬も深まり、新年を祝う晩餐会と舞踏会が開かれる時期になった。
晩餐会は王族とその血族らが主体で、空きがあれば、その年、国に貢献した貴族が招かれる。
エカテリーナは婚約者なれど王族の血は引いていない。血族でも招かれるのは当主か、その代理のみ。
晩餐会には参加せず、舞踏会のみと思っていた彼女の元に、国王夫妻から晩餐会の招待状が届いた。
舞踏会は明後日だ。今になって晩餐会の招待状が来るなど有り得ない。通常ならば舞踏会の招待状に同封されるモノである。
「おかしいわね。慣例では婚約者を招く事はなかったはずだけど。御伺いしてみましょう」
エカテリーナは手紙をしたため、王妃様の侍女に託けた。
すると、半刻も置かぬうちに返事が届き、開封し確認してみると、そこには今回の婚約騒動から王太子の窮地を救ってくれた御礼なのだと記されている。
公には公表出来ないものの、せめてもの気持ちなので参加して欲しいと。どうやら急な欠席者がいて、空いた席にエカテリーナを入れたいらしい。
返事を脳内で反芻し、エカテリーナは憮然と天井を仰いだ。その眼は死んでいる。
晩餐会と銘打ってあるが、実質は夜の六時から始まる舞踏会に合わせて、昼の三時ほどから始まる遅い昼食会。
夜の舞踏会とはドレスコードが違う。辺境伯家と王太子の面子もあるため、下手な装いも出来ない。
ったく、散財させるんじゃないわよ。王宮行事の参加は最低限だと思ってたから、新しいドレスは作ってないわ。
有り合わせのドレスをリメイクして使うしかないわね。アクセサリーは新たに購入だわ。わたくしの資産はいかほどあったかしら?
社交界デビューしてから荘園を得て、エカテリーナは自身の費用は自身で賄っていた。それが辺境伯家のしきたりでもある。
親が養うのは十五歳まで。それ以降は己で身をたて、賄うのだ。
エカテリーナは十三歳で社交界デビューし、十五歳になるまでの間に領地をおさめ発展させ、それなりの税収を得るようになっていた。
嫁入り婿入りなどはまた別で、辺境伯家が全てを設えてくれるが、日々日常は自分で賄わなくてはならない。
今回もそれに当てはまる。
悪役令嬢装備は両親が用意してくれたが、あれらは彼女の趣味ではないし、二度と袖を通したくない黒歴史だ。
いずれリメイクして仕立て直そうと思ってはいたが、今からでは間に合わない。
ドレスは何とかなるが、アクセサリーはアウトだ。
御母様から御借りしようにも、新年舞踏会のために既に此方に向かっているわよね。舞踏会仕様のアクセサリーでは晩餐会につかえないし。
御父様に事情を説明すれば買ってくださるだろうけど、....それは何か負けた気がして嫌だわ。
晩餐会に見合う一式。
エカテリーナは途方にくれつつ、ありったけの資金を集めて貴族御用達のジュエリーショップに向かった。
うーん....
ズラリと並ぶ宝石達。
珊瑚や瑪瑙なんかは比較的御手頃だが、そのへんの茶会ならともかく王宮晩餐会にはつけられない。
最低でもオパール。せめて翡翠。
値段を確認して、エカテリーナは眉をひそめる。ギリギリ買えるか買えないか。
たった十六の小娘がおさめる港町一つ村五つの税収では、王侯級のアクセサリーは荷が重い。
ここで遣いきってしまったら、しばらくは切り詰めて生活しなくてはならないのだ。
まあ、今は後宮住まいだし、食べるには困らないが、自由になるお金がないのは切ない事極まりない。
しかし買わない選択肢は存在しないため、熟考していたエカテリーナの耳に、聞きなれた声が聞こえた。
「ここですわっ、とっても素敵なアクセサリーが沢山ありますのよっ」
振り返るとそこには何時もの可愛らしい笑顔がある。
惚けて見つめるエカテリーナの視線に気づき、ミルティシアは満面の笑顔で駆け寄ってきた。
「御姉様っ、なんて素敵な偶然でしょうっ、御姉様も舞踏会のアクセサリーを購入にいらしたの?」
も? まだ社交界デビューしてないはずよね?
ミルティシアの言葉の意味がわからず、エカテリーナは小首を傾げた。それを理解したのか、幼女はくふりと眼を細める。
「御姉様のおかげですわ。今回の舞踏会で正式な婚約発表をなさるのでしょう? わたくし指輪乙女に選ばれたのですわ」
言われてエカテリーナ納得した。
王侯貴族の正式な婚約では女性に指輪を贈る。正式な発表のさいに贈られる指輪を運ぶのは十二歳以下の少女と決まっているのだ。
大抵は女性側の姉妹や親族から選ばれるが、暗黙の了解で学園シスターもその内に入る。
姉妹のいないエカテリーナなれば、学園シスターであるミルティシアに白羽の矢がたってもおかしくはない。
王宮舞踏会でお役をこなした場合、そのまま舞踏会に参加する資格を得る。
エカテリーナは得心し、花が綻ぶかのようにゆったりと微笑んだ。
「嬉しいわ。貴女が指輪を運んでくださるのね」
「はいっ、御姉様に恥をかかせないよう、しっかりお役をこなしますわっ」
本当は秘密にして驚かせたかったのですけど....と、思わずバラしてしまった事を悔いるようなミルティシアの呟きに、エカテリーナはクスっと小さく笑う。
憂鬱でしかなかった王宮行事が少し楽しみになってきた。
この可愛らしいシスターが楽しめるなら、王宮舞踏会も悪くはない。
エカテリーナは微笑みながら、無意識に幼女の頭を撫でていた。その微笑ましい光景を見つめる、慧眼な眼差しに気づきもせずに。
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