異能犯罪捜査課のエージェントが池袋に到着したとき、街はありふれた賑わいを見せていた。


『まずは一般客の退去だ。従業員に避難指示を出させろ』


 サンシャインシティから少し離れた裏路地で、覆面パトカーに乗る北永が指示を出す。


「了解」


 建物に入ったのは異能犯罪捜査課のエージェント、瀬野慎二せのしんじだ。

 七三分けの髪型に、1番上までボタンを留めたシャツの着こなし。いかにも堅物な彼は、総合受付に辿り着くなり「警視庁の瀬野です」とぶっきらぼうに言う。右手で警察手帳を提示しているのが抜かりない。


「大至急施設を封鎖してください」

「はい?」


 表情1つ変えずに述べる瀬野の顔と、彼の手にある警察手帳を交互に見比べながら、案内係の女性スタッフは怪訝を露わにした。


「えっと、施設を封鎖ですか?」

「ええ。爆発物が仕掛けられている可能性があるので」

「少々お待ちください。いま担当の者に確認を……」


 女性スタッフが落ち着き払って連絡用電話に手を伸ばし、瀬野がわずかに焦燥の色を見せる。

 だがスタッフが掛けるよりも先に電話の方が鳴った。「もしもし」と早口に応答する女性スタッフの表情がみるみる変わっていく。


 同時にいくつかの事が起こる。


 エレベーターホールから群集が押し寄せてきて、一斉に出入口へ殺到する。

 エスカレーターや非常階段を駆け降りる慌ただしい足音がして、見ればそちらからもまた群集が出入口へ向かって行く。

 館内放送が流れ『緊急連絡です。当館は緊急閉鎖致します。館内にいる方は従業員の案内に従って、順番に退避してください。繰り返します……』と告げ始めた(従業員の案内に従って順番に退避するには、どう見ても手遅れに思えた)。


 館内は混乱でいっぱいになり、出入口では殺到した人々が押し合っている。

 走るカップルの女の方が転倒し、慌てて手を差し出す男を別の男が突き飛ばし、折り重なるように倒れた二人の手が、足が、次々と踏み付けられていく。似たような光景があちこちで見られる。


「えぇ、えぇ……はい……了解しました」


 女性スタッフは受話器を置く。えらく話し込んでいたな、と瀬野は無言の内に皮肉を告げた。

 スタッフは瀬野の方へ向き直り、努めて機械的に口を開いた。


「既に封鎖に向けて準備は進めています。退避案内にご協力お願いします」


 瀬野は反射的に断りかける。異能犯罪の可能性がある以上、単なる避難誘導に時間を割く余裕などない。


 そのとき突然、出入り口から崩れるような音がした。驚いて顔を向けると、詰めかけた群衆による将棋倒しが発生している。気付かない後方の群衆が押し掛けるので、あのままではガラス戸が破壊されかねない。瀬野は小さなため息の後で、「すぐに手配します」と言った。


 ――異能犯罪捜査課こちらが要請するより先に、サンシャインシティ側が退避案内を開始した。


 無線から入った瀬野の報告に、パトカー内の轟と月野は顔を見合わせる。


「敵の仕業でしょうか」


 轟が言った。


「仮に爆発物を仕掛けたとして、大勢の一般客を逃がす意味って……」

「北永副課長の嘘が暴かれたってことでしょ」


 ざっくばらんに月野が言い放つ。轟は躊躇うような苦笑いを見せながらも、やがては「きっと」と短く答えて頷く。


「異能犯罪者がここにいるっていうのも、嘘かもしれないわね」

「それは有り得ません」


 今度は即答した。


「村雨さんから指示を預かってますから。敵がいるのは間違いないです」


 はぁ、と月野は短いため息を吐く。


「面倒事は避けられないないってワケね。でも、どうしてわざわざ全員避難させるような真似をしたのかしらね」

「大勢の人がいて困ること、ですか。あるとすれば……」


 そう言って轟が考え込むので、月野が代わって口を開く。


「見られて困る物があるとか?」

「あるいは人かもしれない」

「人?」

「最近になって異能犯罪捜査課われわれの管轄に預けられた、ほとんど多くの人が知ってる指名手配犯が1人いますよね?」

「まさか」


 月野が意外そうな表情をして目を見開く。


「ええ、桐谷静一がいるかもしれません」

「ここで登場って、どうするの? 北永副課長に言っても、動いてもらえるかどうか……」

「いえ、北永さんにも伝えましょう」


 轟はいかにも仕方なさそうに首を振る。しかし思い直して「ですが僕が言うより、明から言った方がいい」と付け加えた。


「わかった」


 そう言って月野が無線を手に持つが、運転席を降りる轟を横目に捉えて、思わず手を止める。


「どこ行くのよ?」

「僕には村雨さんから受けた指示がありますから」

「それなら私も」

「いえ、あなたはここで待機して、あくまで北永さんに従ってください」

「でも……」

「大丈夫ですから」


 月野はなおも食い下がりかけるが、力強く言って微笑を浮かべる轟を見て、遂には諦めて肩を竦めた。


「危ないことはしないでね」

「ええ」


 短く言葉を交わした後、交錯する視線を逸らして轟は駆け出す。


   ☆


 振りかざされた刀の軌道を、羽織っていたカーディガンを振り回して逸らす。

 刀身が床板に叩きつけられて消滅する様になど目もくれず、滝川の手を引いて一目散に逃げる。館内放送の指示に従って、あるいはスタッフに誘導されて、出入口に詰めかける人々の中へ入り込もうと懸命に走る。


 だが、


「待てよ」


 あっという間に追いついて来た桐谷が、早瀬の襟を無造作に掴む。


「せんぱいッ!」


 咄嗟に滝川を導いていた手を離した。

 逃げて、と口を動かしたが、背後からゾッとするような気配がして言葉にならない。

 硬直する体に抗おうと気力を振り絞り、なんとか後ろを振り返る。


 刀を突き出して突進して来る桐谷が、目と鼻の先にまで来ていた。

 即座に身を屈めて切っ先をかわし、不自然な態勢のまま横に飛び退いて距離を置く。


「いいから、逃げて!」


 どこかで田中の声がした。無論、滝川に向けたものではないだろう。


 不審に思った早瀬が背後に目を向けると、激突する桐谷と早瀬に目を見開いていた一般客らが、まるでゾンビの大群のようにゾロゾロと出口へ向かって行った。

 正規のエレベーターに並ぶ列は蠢くばかりで進みが遅く、非常用階段が解放されると若いカップルなどは吸い込まれるようにそちらへ消えた。


 チラチラと滝川の姿を探したが、群れる雑踏の中にも辺りの物陰にも見当たらない。

 途端、鼓動が更に高鳴って、吐き気を催すほどだった。地面に投げ捨てられたネイビーのカーディガンが、鈍く目についた。


「静一クン」


 再び、田中の声。彼の傍らには、やや視線を落とした三木が庇われるようにしている。


「そいつは任せた。俺は女の方を当たる」


 桐谷は首を縦に振り、それから早瀬に向き直った。


 距離にしておおよそ2メートル。詰めるには容易い間合いだ。

 フッ、と短く切るように息を吐く。


「お互い邪魔はしない、って話だったよな?」

「おう」

「約束は破るためにあるとか生意気なこと考えてねえよな?」

「……おう」

「なら話は早い」


 そう言って桐谷は虚空を握る。次の瞬間、大きく逞しい手が無から生成した刀の柄を握っている。


「殺す」


 ゾワリ、と早瀬は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。

 対峙する男の構え、面持ち、目線、呼吸、それら全てが煌めく切っ先に集約されている。そして研ぎ澄まされた感覚の総体たる刃は、真っ直ぐこちらに向いているのだ。


 果てしなく純度の高い殺意。


 日頃のパルクールで見下ろす高所からの景色とも、秋葉原でバッテリーが破裂したときとも比べものにならない、鋭すぎる殺気が早瀬の体を凍り付かせていた。


 やがて、桐谷の方が動く――そう認識した次の瞬間には、ギラギラと眩い刃が水平に脇腹を切り裂かんと迫って来ている。


「はっ!?」


 あまりの驚愕に鳴き声のような音声が洩れ、その一瞬間ですら惜しくなり、全力で後方へ跳ぶ。


 溜まっていた息を吐き出して前方を見やると、すぐ目の前まで詰めて来た桐谷がコンパクトな構えから刀を斜めに斬り上げていた。

 慌てて上体を逸らした早瀬の視界に、白んだ空を背景にして鮮血が飛び散る。数瞬の後、胸部に鋭い熱が迸った。

 カバンとネックレスの紐が切り裂かれ、ドサリとどこかに落ちた。行方を確認する余裕などない。


 仰向けに倒れ込んだ早瀬が一切の感情を自覚するよりも先に、桐谷が止めを刺さんと刀を突き立ててくる。早瀬は無我夢中で横に転がるが、凶刃は追撃を止めずになおも追い縋る。

 バックステップを取ろうとして、しかし足がもつれた早瀬はその場で尻餅を突く。好機を逃すまいと桐谷は即座に刀を斬り下ろした。


 斬撃を防がねば、斬撃を防がねば、と早瀬は視線と思考を必死に巡らせる。

 やがて空と木床を叩くばかりであった手が切り落とされたカバンを掴み、それを精一杯刀の軌道内へ掲げた。


 モノクロのファッショバッグと、冷徹に煌めく刃が交錯する――次の瞬間、刀の方が虚空へ消失した。


 チッ、と舌打ちを零しながら桐谷は構えを解く。


「ちょこまかちょこまか。逃げてんじゃねえよ」

「大人しく、斬られる、ワケがねえ、だろ」


 息も切れ切れに言い返しながら、鞄を放って早瀬はヨロヨロと立ち上がる。

 エレベーターホールへも非常階段へも、誰1人として並んでいない。一般客の避難は完了したらしい。


「お得意の自販機は出さないんだな」

「別に。ポコポコ出しゃあいいって、わけじゃ……」

「だからバテるまで逃げんのか?」

「いや」


 早瀬は半身になって構える。膝を僅かに屈折させ、重心はつま先へ傾ける。呼吸は深く短く繰り返し、相手を真っ直ぐに見据える。


「闘う!」

「上等だ」


 同時に駆け出す。一切の装備を持たない早瀬と手の中に刀を生成する桐谷が衝突する、その刹那――

 右方から水平に薙ぎ払う桐谷の、反対側の肩を掴んで素早く押す。踏みとどまろうとする桐谷の力を反動に、早瀬は高く跳躍した。


「な……!」


 目を見開く桐谷を見降ろしながら、頭上を通る水槽の縁に手足を掛けて留まる。水中を覗くと、アシカが訝し気に早瀬を見ていた。


「ちょっとここ借りるよ」


 トントンとプラスチックを叩きながら声を掛けると、アシカは興味を失ったかのように去っていった。


「結局逃げてんじゃねえか!」


 下の方で桐谷が叫ぶ。


「違えよ撹乱だ」

「訳の分かんねえことを……」


 こちらを睨み上げる桐谷を横目に捉えつつ、早瀬は宙を巡る筒状の水槽を次々に跳んでいく。

 視線をグルリグルリと揺さぶられた桐谷が表情をしかめた、その一瞬を早瀬は見逃さない。


 相手の背後に着地すると同時、刹那の無防備へ一気に間合いを詰め、スピードに乗せた跳び蹴りを放つ。

 ズンッ、とおおよそ人体の衝突とはかけ離れた音が響き渡る。


 目まぐるしい格闘の末、驚愕に目を見開くのは早瀬の方だった。


「そんな、エスパーかよ……!」


 高所から飛び降りた勢いと全力で駆けたスピードを合計した威力の跳び蹴りを、桐谷は振り返りもせずにガードしたのだ。

 腰よりやや上の位置を捉えるはずだった蹴りは、座標そのものは意図した通りに入っていて、しかし実際に当たっているのはゴツゴツした桐谷の掌だった。


「違えよ」

「ぐうぇッ!」


 足を掴まれた早瀬は背中から落下。後頭部もろとも木床に打ち付ける。痛みに悶える間もなく桐谷に身体ごと放り投げられて、平衡感覚を取り戻せないまま床に転がる。


 視界が不明瞭に明滅する中、ぼんやりと映る桐谷のシルエットが歩み寄って来た。


「距離感は音、位置は空気の流れで感じ取るんだよ」

「やっぱり、エスパーじゃねえか」


 事も無げに告げる桐谷に、早瀬は精一杯口を動かして言い返す。声を発しようとする度に内蔵の奥がズキズキと痛み、喉の辺りが焼けるように熱くなった。


「武道やってりゃ誰でもできるはずだが……。ま、エスパーでいい」

「さすが、天才剣道少年……!」


 そう言って早瀬は、立ち上がる、それだけの動作のために、短く息を吐き出して、歯を食いしばり、千切れそうなくらい痛む神経に抗い、全身を奮起させた。


 満身創痍。


 ズタボロの体に鞭打つ早瀬は、いまここに立っていることを奇跡とさえ思っていた。


「まだ立つのか」

「うるせーよ」


 肩を上下させながらも、桐谷の姿を真っ直ぐに捉える。上体がふらつくので、視界もユワリユワリと不安定だ。

 だがそれでも、対峙する相手から目を逸らそうとは思わなかった。

 やがて、再び早瀬は駆け出す。桐谷静一に背を向け、通路に沿って走る。


「逃げんじゃねえかよ」


 ポツリと零した後で、桐谷は後を追った。

 意外に早瀬の足は速く、あっという間に角を曲がって植物的な装飾の通路へ入った。やや遅れて角を曲がった桐谷の、目の前に立ち塞がるのはドクターペッパーだけを売った自販機。


「チッ、異能力か」


 桐谷が舌打ちをすると同時、自販機の上から早瀬が跳び下りてくる。

 狙いはもちろん、桐谷静一。

 隼が如く急降下する早瀬は、存外冷静に思考が働いていた。交錯するまで1秒とないコンマ以下の間に、敵の急所を的確に見定める。構えの隙、死角の位置、ガードの間に合わない場所を慎重かつ迅速に分析し、そして、見えた。


「ぶっ殺してやる!」


 早瀬は吠えた。桐谷の目を睨み、左脇腹の辺りをジッと見据え、全力で手刀を振るう。


 だが、刀のほうが早かった。


 ゴスン、と不吉に鈍い音を立てて早瀬の体が落下する。斬られた箇所がどこかは分からない。腕かもしれないし脚かもしれないし胴体のどこかかもしれない。全身が千切れるように痛む。意識が混濁している。立ち上がる余力など、もはや残っていない。


「ぶっ殺す、だと?」


 落ちた彼を無情な目で見下ろしながら、血の滴る刀を提げて桐谷は静かに言う。


「軽々しく言ってんじゃねえぞ、クズ」


 桐谷の声が聞こえるか聞こえないかの意識のなかで、斬られたどこかの刃傷が信じられないほどの痛みを発している。

 衣服を浸らせる血だまりにも気付かず、血液の不気味な温もりを感知することもなく、また桐谷静一の圧倒的な強さに慄くわけでもなく、薄れる意識の中で、巡る思考の中枢にいるのはただ1人の少女であった。


 ――たきがわ、先輩……。


 極小の抗いとして発せられたかもしれない彼の声は、周囲のあまりに惨憺たるせいで誰にも届かない。

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