7
比較的平静を取り戻した早瀬は、再びドキドキワクワクのデートに没頭していた。
グレートバリアリーフをモチーフにした水槽を観て、ああこれぞデートだ、とありふれたロマンチックに浸る。
「あの魚見てニモって言う子も減ったね」
と滝川が言う。
「最近はあっち見てドリーって言うんじゃないですか?」
早瀬は青い魚を指差しながら返す。解説板には『ナンヨウハギ』と書いてあった。俺は滝川先輩とナンヨウハギを観ているんだ、と早瀬は思った。
やがて売店に着いたところで、ここぞとばかりに早瀬は「せっかくなので」と財布を取り出す。
「何か買うの?」
「先輩こそ、何か欲しいものとかないんですか?」
そうねぇ、と滝川は店内を巡る。
入ってすぐの棚に並ぶぬいぐるみには目もくれず、向かったのは出口付近にある殺風景に明るい照明のエリアだった。
「これなんかいいじゃない?」
と滝川が手に取ったのは、魚の骨格標本の入ったガラス瓶。
「えっと、チョウザメの……」
「ガッコツよ。顎の骨」
「こ、これはえっと、研究室に飾る的な?」
「失礼ね。勇猛で繊細、素敵なインテリアよ。学術的価値もないわけじゃないけど」
「なるほど」
なんのこっちゃさぱり分からず、しかしここで一発かっこつけたいという思いがあって、こっそり値段を確認すると、1があり3があり0が4つ続いている。13万円、プラス税。
「ま、私たちが買えるもんじゃないけどね」
「そうですよねぇ! ほら、先輩あれとかいいんじゃないですか? この帽子、紐引っ張るとひょこひょこ動くやつっすよ。陽キャが被ってインスタ載せるやつ!」
「買ってない商品を身に付けてSNSに出すのはあまり好きじゃないんだけれど」
「いや買いましょうよコレ! ペンギンとかいいんじゃないですか? 先輩似合いそうですし」
ちなみに紐を引くとひょこひょこ動くペンギンの帽子は1200円プラス税。
観光スポットによくある思い出料込みの高額商品だ。頭に付けて「どう?」と尋ねる滝川の無垢な愛おしさが、早瀬に全てを許させた。プライスレス。
しかし馬鹿正直に可愛いと言うのは照れ臭すぎるので、親指を立てて「いい感じっす」と言うことしかできない。
それから2人は屋外テラスへ出た。早瀬の1.5倍はありそうな高さに細長い水槽がドーナツ状に通っていて、中ではアシカがグルリグルリと遊泳している。
透明なプラスチック材もあいまって、まるで空を飛んでいるようにも見えた。
早瀬は思い出したようにスマホを開き、時間を見ると午後一時前。空飛ぶ海洋生物も気になるが、先に喫茶店で昼食を摂ることにした。
「先輩は?」
ホットドッグとココアラテを注文してから尋ねる。
「カフェラテだけでいいや」
「食べないんですか?」
「うん」
半ば強引に2000円を出しながら言うと、微笑みつつ財布を引っ込めた滝川が首を縦に振る。天井から吊り下げられたメニュー看板を見て、「あら、アルコールメニューもあるのね」と意外そうに言った。
「飲むんですか?」
「まさか。君がお酒飲めるようになったら、ね?」
ホットドッグとマグカップを2つ載せたトレイを受け取って、2人は窓際のテーブル席に向かい合って座る。大きなガラスの向こうには屋外テラスが広がっていて、プラスチックの水槽で活き活きと躍動するアシカの姿が見えた。
「ここでよかったですか?」
「ええ。早瀬くんこそ、テラス席じゃなくてよかったの?」
「あぁ、全然。ここもいい感じですしね」
「たしかに、施設の1番見せたいものが見られるのは、ここかもね」
そう言って滝川は熱々のカフェラテを啜る。ロマンの欠片もない台詞を言う彼女に、そういえばこういう人だったな、と笑みを零す。ピクルスソースの載ったホットドッグを注意深くかじった。
「どうかした?」
「いえ」
口元の緩んでいるのを怪訝に思ったのだろう、カップから口を離した滝川が尋ねてくる。早瀬が首を横に振ると、滝川は短く「そう」とだけ言った。
互いのマグカップが空になった後も、2人はしばらく雑談を続けていた。無心になって会話を楽しむ早瀬の姿を、
☆
屋外テラスを歩く桐谷静一らが、喫茶店の向こうに見つけた。
「あの野郎……」
「手出しはすんなよ」
全身をブルブルと震わせる桐谷を見た田中が、淡々と警告した。
「分かってる……」
口では言いながらも、彼は数秒の間ガラス越しに早瀬を睨み続けていた。
しかしやがて踵を返し、ペンギンコーナーへ向かう田中と三木を追う。
「もしもに備えて1人呼んでるけどさ」
カワウソたちを横目に歩く田中が口を開く。
「バレたらヤバいのはこっちだから。ここは人も多いし、仕方ない」
「仕方ない、っすね」
桐谷は大きく息を吐く。
彼の抱く憎悪を、田中と三木が理解できるはずない。何故なら彼は2人に秘密で早瀬と約束を交わし、そして秘密の内に破られたのだから。
たしかに迂闊だったかもしれない、と桐谷は心のどこかで省みている。単なる口約束に過ぎないのに、理不尽に着せられた殺人鬼の汚名を隠そうともせず、向こうから動くことはないだろうと高を括っていた。紛れもなく桐谷自身の軽率だ。
だがそれ以上に失望が大きかった。たしかに口約束だし、軽率だ。田中と三木への裏切りのようでもある。しかし同時に、早瀬の裏切りでもある。
――
憎悪の種はそれだった。
やむにやまれぬ事情があるのはお互いさまで、それでもなお大切なものがあるから矛を収める。2人はそうやって合意したはずだ。
あるいは彼にとって、タキガワハルナはそれほど大事な存在ではないのかもしれない。桐谷にとっての平穏と、早瀬にとっての恋人は、元々等価ではなかった……
「あ、カワウソっすね」
背後で声が聞こえる。
「妖怪の方ならちょっぴり面白かったのにね」
クスクスと笑う声も。
――ふざけやがって。
桐谷がヒタリと立ち止まる。すぐに田中が気付いて制しかけるが、ちょうどそこに着信が入った。さっき呼び出した応援からだ。
「もしもし?」
「田中さん、なにやらかしました?」
電話口から聞こえる爽やかな声は、開口一番嘲笑を含んだ響きと共に言う。
「心当たりはないが」
「いやいや、嘘はダメですよ」
「はあ?」
首を傾げる田中に、爽やかな声は続けて言った。
「ブクロ、警官だらけ」
「警官だらけ……もう警察が?」
田中が復唱するや否や、桐谷静一は迷わず駆け出した。
狙いは、早瀬悠希――
「てめえ!」
腹の底を響かせて、威嚇のために大声を発する。単に大きな声という意味ではない。
かつて武道を極めた桐谷の発するそれは、さながら空砲のように辺りを震わせた。しかも空気の震えはあくまで余波に過ぎず、咆哮は不可視の光線となって早瀬悠希に襲い掛かる。
質量の伴わない衝撃波の如き怒声は、瞬く間に早瀬と滝川まで到達し、2人に底知れぬ圧を与える。
「すみません」
桐谷の静止を諦めた田中は、仕方なしに近くのスタッフへ声を掛ける。
「大至急このビルから人を逃がしてください。爆発物が仕掛けられています」
「か、かしこまりました!」
直前まで呆然とするばかりだったスタッフは、まるで催眠や洗脳に掛かったみたいに言われるがまま動き出す。
避難指示のアナウンスが響き渡る中、桐谷静一は手元に生成した刀で早瀬に斬りかかった。
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