「女の方はダメだった。相手にもされない」


 化粧室への通路を、さらに奥へ進んだエレベーターホールにて。

 三木は田中の耳元でボソリと言う。


「まあ想定内」


 決して社交的でない彼女が上手いこと言いくるめるなど、田中は期待していなかった。それより気になるのは、三木がほとんどゼロ距離の隣まで来たことだ。


「なんでわざわざ近くまで来た?」

「他の人に聞かれたらマズい」

「いや、誰もいないから……」


 必要以上に警戒心を剥き出しにするので田中は呆れ顔になる。


 物静かな三木に対して、多くの人間は思慮深さや近寄りがたさのようなものを抱く。

 しかし付き合いの長い田中にしてみれば、彼女は絵が上手いだけの奇妙なトンチンカンに過ぎなかった。ひょっとすると変わり者の性質は、すなわちアーティストの素質であるのかもしれない。それなら潰すわけにはいかないだろうが、たまに面倒臭くなるのも本音である。


「彼にはどこまで言ってるの?」


 ボーっと思考を巡らせていると、先ほどとは違った声色で三木が言う。不用意な警戒のない、実直な懸念を孕む声だ。


「組織のことは言ってある」

「ボスには?」

「まだ会ってない」

「私たちのことは?」

「俺はコミック出版社員。お前はただ組織の味方とだけ」


 ふぅん、と三木は淡白な声を発する。そして壁際まで行ってしゃがみ込み、膝を抱えて田中を見上げる。


「信頼できるの?」

「できる。静一クンには裏切るメリットがない」


 もう1度三木はふぅん、と淡白に言った。


「あんまり気持ちのいい理由じゃないね」


 田中は何か言い返そうとしたが、首を振りながら真っ直ぐこちらへ来る桐谷が見えたので、三木の方をチラリと一瞥するに留めた。


 トイレの出来事が頭から離れない早瀬は、「お待たせ」と声を掛けられるまで滝川に気付かなかった。


「ああ先輩」と言ったのすら、必死に考えた末の言葉で、大丈夫ですの一言が出ることはない。

 視線が無意識に滝川の履いているグレーの靴へ向く。


「どうかしたの?」

「あぁいえ。行きましょうよ、次!」


 やばい、やばい、とは思いつつも決して動揺を悟られるまいとして、早瀬を動かすのは頭のどこかにある冷静な一部分である。そういった事情もあり、滝川の手を取ったのは完全に無意識のことだった。


 ようやく彼が落ち着きを取り戻したのは、アザラシの遊泳する水槽まで来てのこと。

 そこで一言「アザラシっすね!」と馬鹿っぽい感想を言い放って、同時に滝川の手を握っている右手に気付く。


 慌てて手を離し「あ~いや、なんかすいません!」と下手くそな誤魔化しを口にする。滝川は「別にいいよ」とクスクス笑った後で、突然キッと口元を結んだ。凛と引き締まる唇と爛漫に細められた目元の矛盾に、思わず目を奪われる。


「さっき、トイレで組織の人たちと会ったよ」


 早瀬はドキリとした。少しでも不審を悟られては、桐谷静一との取り決めが無駄になってしまう。顔の強張りだけでもなんとかせねばと躍起になるが、かえって表情が硬くなる一方だった。


「組織のひと、って言うと?」


 絞り出すように言った、その言葉が白々しい。


「新井樹の仲間ってことよ」

「なるほど」


 しきりに頷きながらも、早瀬はとぼけることしかできず、それすら中途半端になってしまう自分に苛立つ。


「とりあえず、村雨さんに連絡しないと」

「あ、待っ……!」


 滝川がスマホを取り出すので、考えるよりも先に彼女の手首を掴んでいた。


「早瀬くん」

「いやその、えっと」


 丸い瞳に見つめられて、言い淀みながら手を離す。


「もしもし、村雨さん。滝川です」


 声を潜める滝川を横目に、早瀬はハラハラとアザラシを眺めた。

 暗い素朴な水槽内を遊泳する斑模様の海獣は、悠々と快適に泳ぎ回っているように思える。しかしその目はキョロキョロと辺りを巡っていて、落ち着かない視線に親しみのようなものを覚えた。


「組織の人間と接触しました。……池袋のサンシャイン水族館です。対象は女、18歳前後……はい、早瀬くんと一緒です」


 忙しないアザラシに自身を見出しつつ、そういえばデートに誘えたのは村雨さんのおかげだったな、とぼんやり考える。


 誰かに言われなければ、滝川を誘う発想すらなかっただろう。


「……ですが、いまは人も多くお互い手出しはできません。それに事情も事情なので、異能課は待機でお願いします」

「え?」


 と早瀬が横を向いたとき、既に滝川は「ありがとうございます」と通話を切っていた。


「それじゃあ次、行こっか」


 ルンルンと楽し気な様子を取り戻して、滝川が順路を進んで行く。軽やかに歩く滝川の背中を追って早瀬も進む。



 スマホを耳に当てる滝川陽菜の姿を見て、田中は「どうする」と言った。誰かに向けて言ったというよりも、状況に対する便宜的な音声として発したような感じだ。


「逃げるしかないよね?」


 消え入りそうな声を出す三木に、田中は少しの間考え込んでから「まあ仕方ないんじゃね」と呟く。


「2人とも満足か、水族館は?」

「でも空飛ぶペンギンがまだ」

「じゃあそれ見たらとっとと……」

「あとお土産も見たい」

「じゃあ売店とペンギン見て帰るぞ」


 普段の無表情よりも比較的満ち足りた無表情で頷く三木を横目に、田中は桐谷の方に目をやって「静一クンもそれでいい?」と尋ねる。


 ジッと滝川――正確にはその隣に立つ少年の背中を睨み付けていた桐谷は、やがてフッと空気感を緩めて「いいですよ」と短く言った。


「いちおう応援は呼んであるから」


 田中は激励のつもりで言ったが、三木は既に滝川と早瀬のいなくなったアザラシの水槽へ向かっている。

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