7月27日土曜日。午前9時45分。池袋駅東口にて。


 この日のために最高のオシャレをキメて来た早瀬は、心落ち着かずウロウロとしていた。

 壁にもたれてスマホに目を滑らせたかと思えば、特に意味もなく改札の方まで行ってみて、そこに意味がないと分かれば今度は意味もなく駅内ショップの店頭を意味もなく眺めたりする。


 それでも一向に落ち着かないので、意味もなく駅を出て近くの曲がり角へ行き意味もなく異能を発動させて意味もなく自販機を出し意味もなくドクターペッパーを買った。

 ため息を押し返すように喉の奥へと流し込んでから、待ち合わせ場所の駅口に戻る早瀬の目が、ふとショーウィンドウに映る自身の姿を捉えた。

 

 人知れず深呼吸をして、そそくさと待ち合わせ場所に戻る。


「デート行くときってどんな服がいいと思う?」


 終業式の日(つまり昨日)。

 高校の友人、結田流二に相談したところ、返ってきた答えは「普段のお前はヤバイ」


「普段の俺はヤバイ」

「ていうかなに、デート行くの?」

「まあ、おう」

「相手は? 例のタキガワ先輩?」


 コクリと頷くと、結田はバシバシと背中を叩いてきた。


「だから、その……服買うの手伝ってくれ」

「おう任せろ!」


 やたらと張り切る結田の威勢が不安で仕方ないものの、他に頼れる相手もいないので「助かるぜ」と言う他なかった。なんにせよ、現状のファッションセンスよりもマシになることは間違いない。

 そんなこんなで二人は、放課後原宿のWEGOを訪れたのだった。それが昨日の話。


 一夜明けてデート当日。つまり今日。

 薄手のネイビーカーディガン、胸元に小さくロゴの入ったVネック白シャツ、ストレッチ素材のヴィンテージ加工デニムパンツ。

 靴までは気が配れず、普段からパルクールを共にしているグレーのスニーカーを履いてきた。

 何より目を引くのが、胸元で煌々と輝くイエローのリングネックレス。「黄色が好きだからどうしても!」と言う早瀬を連れた結田が、原宿表参道渋谷を駆けまわった末に発掘してくれたものだ。商品タグにはしっかりゴールドと記載されていたが、早瀬はイエローだと言い張っている。

 モノクロの肩掛けカバンは、カーディガンの中で控えめにしている。バッグの上から服を羽織ることへの抵抗を、早瀬は未だ拭いきれていない。しかしWEGOの店員が言っていたのだから、これがトレンドのオシャレに違いないのだ。


 髪型もしっかりとキメてきた。というより結田に「その寝癖でデートにいくわけ……?」と指摘され、大慌てでワックスを購入したのだ。

 さすがの結田も髪型をどうこうは出来ないようで、Googleと共に小一時間苦心して、なんとかそれっぽいヘアスタイルにすることができた。できたと信じている。具体的にどこがどう変わったのかは早瀬にもよく分かっていないが、結田曰く「寝癖ではない」らしい。


 とにかく、準備は整った。整っている。後は滝川陽菜を迎え撃ち、円満に水族館へ行ってスマートに昼食(ランチ)を食べてスマートに午後の時間を潰してスマートに夕飯(ディナー)を食べる。そしてスマートに帰る。それだけだ。

 約束の時刻、午前10時は刻々と迫っている。時間の進む足音が、早瀬には絶対的存在たる神の足音のように聞こえてくる。もはやそれは逃れられない運命。幕は切り落とされた。神々の黄昏ラグナロク黙示録アポカリプス。いちご100%。君に届け。電車男。


「早瀬くん」

「ヴェッ!」


 突然横から声を掛けられて、心臓を縮み上がらせつつも、視界は滝川の姿をきっちりと映している。


「おはよう。待った?」

「い、いえ。ちっとも!」


 なにがちっともか、15分待ったわ。


 もちろんそんなこと口に出さない。おくびにも出さない。というより早瀬は、十五分待った事実を心からどうでもよく思っていて、ただ滝川陽菜に目を奪われるばかりであった。


 改めて、美しいと思う。

 黒いショートボブにまるりと神秘的な顔立ちが、普段とは違う美しさを有しているように感じられる。服装もまた、これまで見たことないものばかりだ。ベージュのライトアウターに無地のグレーシャツ、黒地に水玉柄のミニスカート、足のほとんどを露出させた灰色の靴。肩にはシルバーの小さなショルダーバックを提げている。


 ふと、早瀬の心の奥底に一抹の不安がよぎる。滝川陽菜に恋焦がれ、隣にいようとすることが、いかに困難で隔世的なことであるか……。


「行かないの?」


 滝川が言った。表情をキョトンとさせる彼女を見ていると、一瞬の苦悩などたちまち消え去って行く。


「行きますか!」


 緊張を悟られないよう静かに深呼吸し、早瀬は先立って歩き出す。



 早瀬と滝川が合流する数分前。

 桐谷静一と三木明里を連れた田中友哉が、池袋駅からサンシャインシティへ向かっていた、その道中で目撃したのは、曲がり角で自販機を生成する少年の姿。


(自販機の異能、か)


 話を聞いていた田中は、すぐに合点がいく。咄嗟に仲間へ電話しかけたが、なんやかんやでウキウキしている2人の気分に水を差すのも悪いので、こっそりとメールを送るに留めた。


『池袋にて自販機の異能者を発見。少女同伴』


  ☆


 水族園へ向かうエレベーターは幻想的な音響と照明効果を施されていて、上昇中でも海獣たちが待つ水族館への高揚を煽ってくる。


 ――これはデートっぽいぞ。


 心の中で池袋の粋な計らいに感謝しつつ、チラリと滝川の顔を窺う。


「けっこう普通ね。こういうところのエレベーターって、もっと速いのかと思ってたけど」


 直方体の中の演出など所詮子供だまし、滝川には通用しない。


「あぁたしかに、そうですね。うん」


 早瀬は無難な相槌に努めた。エレベーターの速度について真剣に考えたことがないので、気の利いたコメントは浮かばなかった。とはいえ、まだまだ始まったばかり。入場はおろかチケットすら買っていない。本番はこれからである。


 やがて屋上に着き、エレベーターの扉が開く、ほとんど同時に飛び込んでくるのは水流の音で、それからすぐに「こんにちは!」と歓迎なのか威圧なのか分からない大声が飛んでくる。

 案内されるがままチケットカウンターの列に並んで、2200円の入場料金に驚愕しつつも、ひとまずはホッと一息吐いた。


「あんまり混んでないですね。思ってたより」

「そうね、ちょっと意外」


 それから2人はチケットを買って――ここは絶対奢ってなんぼと思っていたが、あまりに自然な流れで滝川が4400円出した挙句に「受験の息抜きでしょ?」とニッコリ微笑むので抗いようもなかった――植物的な装飾のトンネルを潜って館内へ入る。


順路の通りに進んで行き、水槽の前で立ち止まっては好き勝手に言い合った。

 やれチンアナゴは煮たら溶けそうだ、やれコブダイとナポレオンフィッシュは同じ魚なのか似てるだけなのか(似てるだけの別種らしい)、やれイワシの魚群は眩し過ぎて目がチラチラするとか、そういったことだ。


 水族館内は暗い陰影と鮮やかなブルーに染まっていて、人々はさながら魚群のように通路をゆったりと進んでいる。

 早瀬も魚群へ飛び込み、流れに沿って進むつもりであった。しかし滝川がそれを許さない。


「あれ、読もうよ」

「えっと……どれ?」


 彼女は誰も気付かないような小さな案内板を次々に見つけ、人気のない方へズンズン進んで行く。

 結果として2人は穴場を占有しているので、早瀬は感心半分不満半分の心持であった。


 とはいえ水族館デートを素直に楽しんでいるのは紛れもない事実である。思い描いていた形でないにせよ、非常に満ち足りていた。


 広い筒状の水槽の陰になった部分に、地味な色合いの魚が鎮座している。大型のエイや鮮やかな色彩の魚たちが来ない、故に他に観客が集まるようなこともない位置の、そんな暗い水の中でひっそりと佇む名前も知らない魚を見ている内に、早瀬は自身の孤独がそこに見える気がするのだった――


「水族館の魚とか動物園の動物見て自己投影する人、たまにいるよね」


 傍らで滝川が言ったので、即座に早瀬は「多いっすね! なんか浅いですよね!」と返した。滝川はクスクスと笑った。


 1階を回り終えて階段を昇り、すぐ脇に化粧室があったので、いったん立ち寄ることにした。


 トイレに入って小便器の前に立ち、ようやく早瀬は一息吐く。

 洗面台の鏡で前髪を弄りつつ、スマホを確認すると時刻は正午近くになっていた。時間の流れに驚かされるが、速いので驚いたのか遅いので驚いたのかは分からなかった。

 すっかり麻痺した感覚に苦笑しつつトイレを出ようと振り向くと、ちょうど別の誰かがトイレに入って来る。


 その顔立ちが見覚えのあるもので、しかも想定できる限り最悪の遭遇なので、早瀬は何も言えずに目を見開いた。

 相手もまた驚いたように目を見開いていて、しばらく視線を交錯させた後、ようやく早瀬の方が口を開いた。


「きりたに、せいいち……!?」


 間違いなかった。整然とした短髪は坊主頭に刈り上げているし、猟奇的なイメージとは裏腹に身なりもきちんとしている。

 しかし力強い精悍な顔立ちは写真で見た通りで、間違いなく桐谷静一本人であった。


「自販機の異能者、ホントにいやがった!」


 桐谷が口を開くと同時、思わず早瀬は身構える。

 だが直後、桐谷の方が雰囲気を弛緩させた。変化を感じ取った早瀬も、釣られてほんのりと緊張を解く。彼の眼前を通って、桐谷は小便器の前に立った。


「俺の仲間がお前を見つけたって言ってたよ」

「仲間、ってことはやっぱり組織で動いてんのか?」

「そこまでバレてんのか」


 フッと種類の読めない笑みを零してから、桐谷は洗面台までやって来て手を洗う。


「警察と繋がってるってのはマジなんだな」

「その仲間と一緒に……水族館?」

「来ちゃダメか?」

「だめっていうか、悪の組織らしくないっていうか」

「別に悪の組織だなんて自覚はないけどな」

「警察署で殺しといて……」


 そこで早瀬は口をつぐむ。桐谷の鋭い視線が、ジロリとこちらに向いたからだ。


「別に同情なんか求めてねえけど、親父が冤罪で捕まったんだ。殺しの1つや2つしたくなる」

「……だったら俺も殺すのか?」

「それでもいいが」


 真っ直ぐに向き直った桐谷が、ジリジリと早瀬の方に歩み寄って来る。無意識の内に後ずさるが、やがては壁際まで追い詰められて、乾燥機に後頭部を打ち付ける。

 グッと桐谷が手を伸ばしてくる。反射的に早瀬は屈み込むが、頭上で聞こえるのは桐谷が手を乾かす音だけだった。


「反射神経すごいな」


 目線だけを下に向ける桐谷が、素直な称賛を送った。


「それは、どうも」


 桐谷が乾燥機から手を抜くと、喧しい音が鳴り終えて静かになる。

 とにかく、と桐谷は両手を叩き合わせて言った。


「俺は揉め事をこれ以上起こしたくない。お前は?」

「そりゃまあ」

「だろうな。だからさ、ここはお互い見逃そうぜ。それでいいな?」

「あ、おう」

「よし決まり。お前もデートを無駄にしたくないだろうし」

「な……」


 何か言いかけるが何も言えない早瀬を置いて、ヒラヒラ手を振りながら桐谷はトイレを出て行く。


「その、反省したから坊主にしたのか?」


 なんとか発せた言葉はそれだった。


「うっせぇ!」


 軽快に言い返す桐谷の姿が、ブルーの陰影を映す館内へ吸い込まれて行った。



 滝川陽菜もまた、化粧室でクロの異能者と接触していた。


「あなたがタキガワハルナですか?」

「どなた?」

「初めまして。三木明里です」

「ふーん。よろしくね」


 手を洗いながら適当に言う滝川は、三木のことを全く相手にしていない様子だ。露骨な態度に三木は顔をしかめる。


「私が誰か分かってますか?」

「異能犯罪組織の一員。ちょっと堅い言い方になっちゃったけど」


 サラサラとまるで清流のような滑らかさで紡がれる滝川の言葉に、思わず三木は呆気に取られる。

 水滴の一切付着していない手を振りながら、「それじゃあ」と滝川は化粧を出て行く。その背中に三木は「大人しく従うのが身のためですよ!」と叩き付けるように叫ぶ。

 滝川はスッと足を止めると、横顔を向けて


「やってご覧なさいな」


 今度こそ化粧室を去って行く滝川を、三木は追えるはずもない。

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