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もんじゃ焼き店で村雨と分かれた早瀬は、某私立大学神田キャンパスまで来ていた。
ネイビーともグレーともつかない色の敷地に入りながら早瀬は考える。
滝川との関係性について、なんと表現すればいいのだろう。
友人、とは違う気がする。滝川は一個上だし、そこまで気軽な関係でもあるまい。かといって先輩後輩の仲でもないだろう。確かに「滝川先輩」と呼んではいるが、あくまでも便宜上の呼び方だ。実際の距離感はもっと近いと思う。
北西側にある理学部棟のエレベーターホールまで辿り着き、4階へ上がる。ゆっくりと上昇する箱の中で、友達でもなく先輩でもない滝川陽菜は自分にとって何者なのだろうか?
ささやかな疑問を抱いたまま四階に着き、滝川の待つ実験室へ向かう。廊下を歩きながら早瀬は考える。
今日の第一声、なんと声を掛けるべきか?
こんにちは、は普通というか面白みがないというか他人行儀というか……。
村雨さんの資料です、も事務的過ぎる。
元気ですか、は意味が分からない。
呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん、はスベったときのダメージが大きい。
なにかいい案はないものだろうかと考えつつ、教室の扉を開けた。
「あら、早瀬くん」
1歩室内に入った途端、滝川陽菜が声を掛けてくる。さっきまでの思考はどこへやら、早瀬は「ちわす」と適当な調子で言った。
「例の資料、受け取りましたよ」
「桐谷静一のやつね。ありがと」
早瀬の差し出したクリアファイルを受け取る、その動作が洗練された美しい仕草のように思えて、早瀬は目を奪われる。
思わず滝川の顔に視線を向け、「ありがとう」と礼を言う彼女の、ほんの僅かに傾いたクリリと丸く大きい瞳、スッと通った慎ましい鼻筋、ふんわりと和やかな頬、整然とした黄金比のもとに膨らんだ唇の、なんと貴いものか。
――デートにでも誘えよ。
頭のどこかで誰かが言う。デートという単語が脳内に反響して、早瀬を錯乱に近い境地へ導いていく。
デート、池袋サンシャイン水族館、神田から山手線で一本、入館料2200円、学校は今週で夏休みに入る、夏期講習は来週から、週末は空いている……週末は空いている。
行くしかない、今週末に。
滝川先輩とデートに行けたらどんなに楽しいか。
この素敵な先輩が、隣でダイオウグソクムシを観ている。ダイオウグソクムシを観る隣に、この素敵な先輩がいる。嗚呼、なんと幸福なことか。
貴女の美しさを全てこの手にしようなどと、欲深いことは申しません。せめて隣にいることだけは、お許しを……。
早瀬の中で「
ここでそんなだっさいポエムを言ったってなんにもならないぜ。必要なのは勇気、たった一言「一緒に出掛けましょう」的なのを言うだけでいいんだ。お前の名前もゆうきだろ? いまこそ名付け親の言霊にあやかれよ。母か、父か、親戚の誰かか、それとも近所のおっさんか。誰でもいい、とにかく大切なのは、目の前の女子大生をデートに誘うことだ。行き先も決まってんだし、なんもビビる必要ないって。ガツンといってやれ!
しかし「
やめとけ焦るなまだ慌てるような時期じゃない。そんなホイホイ誘いに乗るような人に見えるか? 相手はあの滝川陽菜だぞ、もっと冷静になれ。いつもビビり散らしてる村雨隆にコロコロ笑って話すような人だぞ。ここは焦らず伏せるべきだ。きっと然るべき時期が来る。それまで待つんだ。大丈夫だ、遅すぎるなんてことはない。
いったいどちらが正しいのか、早瀬には決められるはずなかった。
あるいはどちらも正しくないのかもしれない。だが、決めるしかない……!
「どうしたの?」
怪訝な様子で滝川が尋ねてくる。
――デートにでも誘えよ。
頭の中で反響する。やがて早瀬が、口を開く。
「い、いやーその、なんていうか。夏休みは夏期講習ばっかで嫌だなーって」
チキってんじゃねえよ、と「
「受験生だから仕方ないよ。……と、言いたいところだけどね。1日や2日くらい、息抜きしてもいいんじゃない?」
「そうですよね! どどど、どこ行こっかなー」
キョドり過ぎだろバカ、と「|ヘタレ・早瀬悠希(キッズエンペラー)」が言う。
「コミックマーケットとか行かないの?」
「コミケは行きますけど」
「それとは別で遊びたいの?」
ヴ、と早瀬は言葉に詰まる。「
「遊ぶというか息抜きというか……」
「息抜きするなら遊ぶでしょ」
滝川はため息混じりに言った。
「うーん……じゃあ、池袋のサンシャイン水族館なんかどう? 今年の夏、けっこう推されてるみたいだけど」
「いいですねサンシャイン水族館! そうだ、そこに行こう。いつがいいですかね、いつがいいですか?」
「え? うーんと、お盆の前後は避けた方がいいかもしれない」
「なるほど! そういえば、今週末ちょうど空いてるんだった。次の土曜日に行こう!」
「あら、随分といきなりね」
「あーでも1人で行くのはちょっとなぁ……」
「誰か誘えるお友達いないの?」
「いないです! てか、男2人で水族館もなんか微妙っすよ」
「ああ確かに。カップルだらけよね」
「うーん……。えっと、滝川先輩土曜日暇ですか?」
「わたし?」
滝川は目を丸くして言って、しばし考え込む素振りを見せる。
「いいよ」
「よかった。いやー楽しみっすね!」
らっきー。
☆
スマホが着信を鳴らして、ハンドルを握っていた村雨は、路肩に停車させつつスピーカーフォンで通話状態にする。
「もしもし北永です」
どうした、と咥えた煙草に火を付けながら言う。
「桐谷静一の資料を民間人に渡したと聞きましたが?」
低く這うような彼の声から、苛立ちを必死に抑えているのが伝わってきた。
うんざりと煙を吸い込んで、吐き出す。
「ああ」
「しかも相手は男子高校生とか?」
「女子大生だ」
村雨はきちんと訂正したが、北永の無言が不服を主張するので、仕方なしに言葉を続ける。
「奴らはれっきとした異能者だ。
「約束?」
そう言って北永は吐き捨てるように笑う。
「なにかおかしいことでもあるか?」
「いえ。ただ異能犯罪捜査課課長の口から、まさか『ヤクソク』なんて言葉が聞けるとは思ってもいなかったので」
「それは貴重な経験をしたな」
「ですが……」
皮肉に皮肉で返す村雨に、スマホの向こうから北永は更に何か言いかける。しかし大きく煙を吐き出す音がそれを制した。
「俺の決定だ。従え」
「……民間人に非開示資料を横流しするなど、本来であれば許されない」
「なら1度奴らに会って見るといい」
「それで何かが変わるとでも?」
「もし奴らの底知れなさに気付けなかったら、お前を副課長から解任する」
あまりに淡々と言う村雨に、思わず北永は言葉を失う。
しかしすぐに平静さを取り戻し、「せいぜい失望しなければいいんですけどね」と言い残して通話を切った。
村雨は大きくため息を吐いて、ホルダー型の灰皿に煙草を押し潰す。
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