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桐谷静一本人は、自身についてのほとんど一切が、警視庁どころか一介の男子高校生にまで知られていることなど予想だにしていなかった。
悪い意味で時の人になった自覚はあるので、警察に足跡を調べられたりマスコミに個人情報を洗いざらい晒されたりすることは覚悟している。
しかし人生を叩き潰された所業が、よもや「精神を摩耗していった」という数文字程度で済まされているとは思うまい。
確かにそれは事実であるが、果たして事実の中で一体どれほど凄惨に踏み躙られたことか、どれだけの人が推し量るのだろう。
本人が語ったとして、どれだけの人が信じるのだろう。
今となってはそんな葛藤など過去のことであり、また自身に関する報告書が密かに出回っているとも思わず、桐谷は逃亡生活を送っている。ほぼ満喫していると言っても過言でない。
少なくとも桐谷本人にとっては、父が冤罪で捕まり四六時中記者に追い回されていた時期に比べると、よほど快適な生活に思えた。
その日の朝も、桐谷はいつものように目覚める。
時計を見ると午前7時。大学にも行かず、仕事もしていない彼は、起床時間を気にすることはほとんどない。にもかかわらず早寝早起きの習慣は一向に抜けず、健康的な夜に眠って健康的な朝に目を覚ます。
数センチほど空けた隣の布団で眠る同居人は、十数分後に目覚まし時計をセットしているはずなので、彼を起こさないよう静かに布団から出る。
坊主に丸めたばかりの不慣れな頭を撫でつつ、桐谷は洗面所へ向かう。両手を水洗いしてサッと口をすすぐ。それから顔を洗い、タオルで水を拭って、台所へ向かいがてら洗濯機へ放る。
昨晩炊いた米がまだ残っていたので、朝は和食に決めた。
冷凍庫からアジの開きを2枚取り出し、ラップを解いてレンジに入れ、グリル設定で20分加熱する。その間にシンクに溜まった食器類を洗ってラックに置き、ひと通り洗い物を済ませる頃にはグリルの残り時間が10分程度になっている。
他に何かあるだろうかと冷蔵庫を開けかけたそのとき、突然ジリジリジリと目覚まし時計が鳴った。
桐谷は「おはようございます」と部屋の方へ声を掛けてから、今度こそ冷蔵庫の戸を開く。
生卵がパックのまま入っていたので、3つほど取り出して卵焼きを作った。白だしを使っただけの簡単なものだ。
それからT-falの湯沸かし器に水道水を汲んで沸かし、冷蔵庫脇の棚からインスタントの味噌汁を2つ取り出す。お椀に味噌と具材を出し、沸きたてのお湯を注いだ。
アジの開き、卵焼き、インスタント味噌汁、白飯。
簡単な朝食が完成した頃になって、同居人がキッチンに現れた。普段よりも一層目が細くなっていて、その目元を擦りながらボォーッと様子を見ている。
「おはようございます」
彼の無秩序な寝癖を眺めつつ、桐谷は朗らかに言った。
「朝ごはんあるんで、先食べましょう」
「さんきゅー」
同居人の男は、飄々と間延びした声で礼を言う。2人は布団を畳んで押し入れに仕舞い、ちゃぶ台を引っ張り出して食事を運ぶ。
男は手を合わせて軽く頭を下げてから、アジの開きへ箸を向かわせた。桐谷は先にリモコンを取りに立ち、テレビを付けながら食卓に戻る。
「いいの?」
「はい」
映ったのは朝の情報番組。とはいえこの時間の民放は、バラエティにしてはユーモアに欠けるが報道にしては情報密度に欠ける中途半端な番組しか流していない。
それでも桐谷は、意味もなく番組を流し続ける朝のゆとりが好きで、支度がひと段落したら決まってテレビを付けていた。
桐谷より先に食事を終えた同居人は、タンスからシャツを取り出して洗面所へ向かう。
次に姿を現したときには細目で背の高い男である。彼は仕立てのいい黒のスーツを着て鈍い黄色のネクタイを締め、たちまち清潔な身なりと博識な雰囲気を漂わせる。
「じゃ行ってくる」
スーツ用カバンを提げる同居人は、最後に眼鏡を掛けてから玄関へ向かう。
「はい行ってらっしゃい」
「たぶん昼くらいに三木が来るから」
言い残してから同居人は部屋を出る。桐谷はやれやれとため息を吐きながら食器を片付け始めた。
桐谷静一が暮らしているのは世田谷区にある賃貸アパート、キッチン洗面所ユニットバスが付いたワンルーム。
元々は同居人の男――
「キミはウチで保護する」
出会って間もない頃、田中はそう言った。
「ウチ?」
「異能者の寄り合い。組織がある。最低限の衣食住は支給されるから、安心していい」
桐谷が聞いているのはそれだけで、見通しに不安はあるものの、現状では不自由のない生活を送れている。
不要な外出は控えるよう言い付けられているが、それは桐谷も望むことだったので何ら問題はなかった。
田中友哉がどうして組織とやらに引き込んだのか、桐谷にはよく分からない。国家権力への復讐心を絶えず抱き続けていた桐谷に協力し、北沢署への襲撃を成し遂げたので、ひょっとすると異能力を用いた犯罪でも企んでいるのかもしれない。
だが北沢警察署へ押し入って以降、目立った犯罪行為は何一つしていない。
好機でも窺っているのだろうか、あるいはなにか計画があるのだろうか。詳しい話は桐谷の耳に入ってなかった。
驚くべきことに、田中友哉はコミック出版社に勤める一般的な社会人として生きているらしい。それはいわゆる表の顔なのだろうか。なんにせよ社会的地位のある働き人であれば、進んで国家に刃向かうなど叶うはずもあるまい。
むしろどうして警察署に白昼堂々侵入し、警官を斬り殺すことに加担したのだろうか。その理由を尋ねたところ「野望だよ野望」と、答えになっているようななっていないような返答があるばかりだった。
とにかく桐谷にとって、田中友哉という男が恩人であることに変わりはない。彼の分け与えてくれる生活環境に感謝しつつ、主夫のように家事をこなす毎日を送っている。
その日の晩。
「今週末出掛けるか」
田中が帰宅してくるなり出し抜けに言った。
「どこへ?」
キッチンで夕飯の用意を進めながら、桐谷は玄関口の方へ尋ねる。
「どこでも。俺たちには親睦が必要だし。三木は奥?」
「はい」
スーツジャケットを小脇に抱える田中に続いて、トレイに食事を載せた桐谷も部屋へ入ると、ちゃぶ台に両腕を置いてテレビを眺めるショートヘアの少女が1人。
「三木」
田中が声を掛ける。
「どこに行きたい?」
彼女は目線をテレビから離すことなく、ゆっくりと「どこでも」とだけ告げた。
「どこでもいいってさ」
適当な調子で言いながら、田中はスーツを脱いでクローゼットに仕舞っていく。
「夕飯作ったんで、どうぞ」
ぼんやりとテレビを眺めたままの三木を気に掛けながら、桐谷は夕食を並べていった。
カジキのバターしょうゆ焼き、海藻サラダ、あさりの味噌汁、白飯。様々な料理がちゃぶ台を彩っていって、しかし三木は何も言わないままだ。
それが彼女の名前らしい。初めて彼女と会ったのもこの部屋だった。決して外見は悪くない三木への第一印象は非常に好意的だったが、いざ自己紹介したときの返事がコックリと一回首を縦に振るだけで、途端に雲行きが怪しくなった。
案の定彼女とは未だにまともなコミュニケーションが取れてなくて、しかし田中が仕事に出ている日には決まって部屋を訪れるので、ほとんど毎日二人きりの気まずい日中を過ごしている。
日中ハ洗濯と掃除を進める桐谷の傍らで、三木は垂れ流しのテレビを眺めているか本棚の漫画を読んでいるかであった。持参したスケッチブックにひたすら絵を描いていることもあったが、多くの場合は桐谷に無関心だった。
とはいえ完全に無視しているというのではなく、昼食を作れば綺麗に完食するし、コンビニに行くときには必ず「なにか買って来ますか?」と尋ねてくれる。
好かれているとは思えないが、嫌われているわけでもないらしい。距離感は不安定なままだが、ひとまずは無理矢理にでも納得する他なかった。
「どこ行きたい?」
グレーのスウェット姿に着替えた田中が、ちゃぶ台の前に座り込みながら切り出す。
「いいんですかね、僕が出ちゃっても」
配膳を終えた桐谷も腰を下ろす。3人が食卓を囲うようにして床に座り込むと、一様に手を合わせてから食べ始めた。
「なんのために頭丸めた?」
「えっと……え、コレ変装ってことなんすか?」
「そりゃそうでしょ。まさかそれで反省したつもりだった?」
「いやそうじゃないんですけど」
「まあとにかく、外出してバレるとかは気にしなくていいから」
気が付くと田中の分のカジキはあっという間になくなっている。
彼は味噌汁をズズズズッと飲んでから、三木にもう一度「どっか行きたいとこない?」と聞いた。彼女は首を横に振る。
「静一クンは?」
「行きたいとこ、うーん」
白飯を咀嚼しながら、桐谷は唸り声を上げる。
両国国技館、東京国立博物館、江戸東京博物館……いくつか思い浮かんだが、ふとテレビ画面に目を向けたときにそれがたまたま映っていて、頭に浮かんだ候補地を全部消去して桐谷はそこを選ぶことにした。
なんでも、この夏オススメのスポットだという。
「池袋のサンシャイン水族館とか?」
「おっけー」
田中は剽軽な声で承諾した。
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