ひと月ほど前のこと。


 いまは5月の第1週。その日は3月の終盤。おおよそひと月前である。


 早瀬悠希は趣味であるパルクールをしていた。


「イヤッ、ホイ!」


 とある公園にて。

 バカっぽい声を上げつつ、早瀬はぴょんぴょんと跳ね回る。


 離れたところでは、友人の結田流二ゆいたりゅうじが撮影している。


 膝を曲げて深く沈み、そのままのジャンプで柵を超える。

 歩道を高速で駆け抜け、身長の1.5倍はありそうな壁をよじ登る。

 レンガ造りの歩道に出て柵を飛び越える。

 着地した先は公衆トイレの屋根。

 そこから勢いを殺さずに飛び降りて歩道に降り立つ。


 手をパシパシ叩いていると、結田がぜえぜえと走って来る。


「こんなもんか」


 早瀬が言った。

 肩を上下させている。しかし表情は涼し気だった。

 


 その日の帰り道。


 早瀬は家までの道のりを歩いていた。身体を引きずるようにしていた。

 パルクールは全身の筋肉を酷使する。押し寄せる疲労はとてつもなく大きい。


 ――なんか飲みてえなぁ……。


 ぼんやりと思いながら曲がり角を曲がる。ちょうど自販機があった。


 歩き慣れた家路のはずだが、こんなところに自販機があったなんて。

 しかも売られているのはポカリスエットだけ。


 思わず写真を撮ってから、小銭を入れて美味しくポカリを味わった。


 翌朝。登校中にそこを通ると、自販機は無くなっていた。

 おかしいとは思った。とはいえ大して興味もない。

 だからそのまま忘れる、はずだった。


 ――ドクペ、飲みてえなぁ……。


 下校中、そんなことを思いながら曲がり角を曲がる。


 すると、昨日と同じあの曲がり角の、昨日とほぼ同じ位置に、自販機があった。

 今回はドクターペッパーしか売られていない。


 さすがに変だと思って、何も買わずに立ち去った。でもやっぱり飲みたくなって、自販機の方を振り返ってみた。

 しかし自販機は消滅していた。


 早瀬は思った。

 ひょっとするともしかして、自販機を生み出すチカラに目覚めたのではないか?


 変な話だが根拠はある。


 そもそも、1つの商品しか売られていない自販機というのが珍しい。

 売られているのは決まって飲みたいと思った商品だ。

 現れたり消えたりするのも一瞬。

 

 早瀬自身のニーズに合わせているのだろうか?

 予想が正しければ、と言えるのでは……?


 それから早瀬は、積極的に自販機を生み出していく。

 自販機が出る条件や種類を確かめるために。


 やがて以下のことが確認できた。


・自販機は曲がり角を曲がるときに出てくる

・商品は『早瀬の求めているもの』かつ『実際の自販機で売られているのを見たことがあるもの』のみ

・メーカーはランダムだが、商品と合致している場合がほとんど

・自販機は一定時間経過すれば消失するが、誰かが自販機そのものを認識している間は消えない

・投入した小銭は自販機の消失と共に消失する


 というようなことだ。


 そしてなにより、早瀬以外の人間は、自販機に違和感を持たない。


 たとえ不自然な位置にあっても。

 直前まで存在しなかった場所に現れても。

 当然のこととして受け入れてしまう。


 結田と並んで歩いていたとき、それが分かった。

 うっかり曲がり角で出してしまったが、彼は「おードクターペッパーじゃん。買っちゃおー」と言って、ウキウキと小銭を入れたのだった。


   ☆


 それからさらに数日後。

 東京都千代田区神田にて。


「いま自販機出したよね!?」


 早瀬が叩きつけられたのはそんな疑問だった。


 ――いきなりなんなんだこのヒト……。


 疑問を口にするのは、見知らぬ少女だった。かなり可愛い。

 かなり可愛い、それだけならいい。妙なテンションなのを抜きにして。


 問題なのはそこじゃない。


 彼女は自販機を認識できているのだ。正確に言えば、を。 


「あ、えぇと……」


 早瀬はキョドる。誤魔化すように笑い続ける。


 女子と話した経験が、早瀬には少ない。

 そんな彼にとって、見知らぬ少女に声を掛けられるのは苦痛でしかない。


「だいじょうぶ?」


 美少女は優しいので心配してくれる。


「あぁダイジョウブですダイジョブ、ダイジョウブ!」


 ブンブンと手を振りながら、早瀬は早口になる。

 少女は眉をひそめた。


「えっとその、分かるんですか?」

「なにが?」

「俺が自販機出したこと」


 美少女は「うん」と即答する。

 そのクリクリと大きな瞳に見つめられて、早瀬は思わず目を逸らす。


「どうして」


 気付いたときには口にしている。


「私も異能者だから」

「……え?」

「そっか、まだ自覚ないんだね」


 納得した様子の彼女に、早瀬は呆然と目を見開く。

 もはや言葉を理解しようとする意志すら働かない。


 そんな彼を尻目に、美少女はワクワクと明るい様子である。


「あーなるほど。それじゃあキミにとって私が第1号ってわけかぁ」

「第1号?」


 うん、と頷いて美少女が姿勢を正した。

 ようやく早瀬は、彼女の姿をしっかり捉える。


 改めて、綺麗な人だなと思う。


 黒いショートボブに、まるりと小さな顔。瞳は塗りつぶされているかのように真っ黒だ。目や髪の黒色が、白い肌と美しいコントラストを生み出している。

 小柄だがグラマーで、淡いグリーンの丸首セーターから伸びる腕も、白いジーンズがピタリと密着している脚も、スラリと長い。

 モデルやアイドルになっている姿は想像できないが、並大抵の人間どころか芸能人と比べても目を惹くような美少女である。


 早瀬はドギマギとたじろいだ。そして圧倒されるような感覚を覚えた。

 逆立ちしてもこの人には敵わないだろう。そういう正体の掴めない果てしなさ。


 美少女は明るい調子を崩さずに言う。


「私は滝川陽菜たきがわはるな。水を弾く異能力『完全防水皮膜モイストプロテクト』の使い手だよ」

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