第3話 10年の苦悩

10年の苦悩


まず、1・2話でざっくばらんな説明をさせていただきました。

今度は、10年という月日についてもっと掘り下げて話が出来たらと思って

書いています。


1.劣等感、見栄、虚無感に襲われた10年間

 私が高卒で就職した後に、色々と転職を繰り返しつつも挫折を繰り返すわけです。

 当然のごとく、私は人並みのことがまるで出来なかったダメ人間だったのでは?と未だに強く感じていて、劣等感や自己顕示欲に駆られて服も買い漁ってしまったし、無駄な労力が多かったのでは?未だに感じる事が多かった様に思います。


2.勉強も仕事も何もかもうまくいかず

 まず勉強が全然出来なかったのは未だに強く覚えています。

 今となっては発達障害特有の言語理解の低さが一番の原因とも言えるし、自身の特性である創造性の欠如による部分で相手の気持ちを察する能力の乏しさから他人とより良い関係性を築く事が困難であった事はよくわかっています。

 ただ、10年を振り返ってみると他者との共感体験がいかに重大な事であるかを強く実感していて、それを経験出来ないと劣等感や見栄で生きるようになり、自分自身が空っぽのような心情になってしまうことで引きこもりのリスクが増大する可能性が非常に高いと自身を振り返っても強く感じるところです。


3.当時の心境

 両親とも感覚的な部分からまるですれ違いが多くて、多くの他人と理解しあうことを放棄していたような気がします。

 というよりも、“わかりあえた可能性もある”が、その可能性よりも人と分かちあうことは不可能であると決めつけている自分がいて、積極的に相手を知ろうとしなかった自分が居たことで社会に対して長い間心を閉ざしていた気もします。

 心を通わした経験がないことで、同性とも楽しく遊ぶ自己イメージが全くできず、異性に対しても同じことが言えました。

 このまま歳をとったら、間違いなく自分は独身だし、生きていけない・・・そう感じているニート・フリーター時代だったと思います。

 

4.自己イメージの重要さ

 さきほど、楽しく遊んでいるイメージが難しいと説明しましたが、このイメージが将来的に自分の将来像を決める1ページになっていく事を自覚している方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか?

 私は〇〇が出来る、これが出来ない・・・等々のセルフイメージというやつですが、一見大した事がないように聞こえる話です。

 でも、この自己イメージってよほど他人と心を通わす体験を出来ない限り、そうそう簡単に払拭出来るものではないのです。

 自分は〇〇が出来ると思う人は当然、それに向かって前向きに取り組みます。

 自己に対して肯定的なイメージがつくれている人は冗談抜きで出来ます。

 しかし、両親のどちらかでお前はホント使い物にならない、などとガミガミ怒鳴られた経験をしていたら・・・消極的になるリスクも上がるわけです。

 それだけが原因でないとしても、誰しもガミガミ怒鳴られてばかりいた幼少期を経験すると、消極的になりがちで肯定的なイメージも身に付きにくいとは思います。


5.問題なのは怒鳴ることではなく、原因を追究する事

 勉強がこれだけ出来ないのはなぜなんだろう・・・という疑念を持ったとします。

 まず、教科書を読んでも内容がイマイチ理解出来ない事かな?感じが読めない?数学でいうと公式のルールがわかっていないからかなぁ?などと自問自答するわけです。

 ただ、やみくもに勉強しても成績が上がるわけではなく基礎的な部分が出来ていないから成績が上がらない事は大変多く感じています。

 仕事に関してもそうでした。

 執着が強いと本当に大事な事が見えてきません。

 相手がしてほしいことが、わかりづらいからです。

 皆が、求めている事がイマイチわかりづらくて一人だけおかしな真似をしてしまう事が多いという場合には、現実感覚があるかを再認識した方がいいかもしれません。


6.執着、見栄で得たもの、失われたもの

 私は長きに渡り、ネット依存、買い物依存、AV依存に陥っていたと思います。

 しかし、多くの場合は「凄い」「さすが」という賞賛が欲しかったからです。

 私のことをあまり褒めてくれなかった両親から認められたかったから、そういう衝動に走っていた10年だったのは確実です。

 ホントは、そこまでの衝動に駆られる必要性もなければ相手もそこまでのことを求めているわけでもありません。

 しかし、自己肯定のイメージができていなかった事で高価な服を買ってみたり良い身だしなみに近づけて自分を高めようと必死でした。

 ネット依存に走ったのも、ネットだと現実では出来ない事がたくさん出来るから、私の場合は中毒にも陥ったような感じでのめり込みました。

 ちょっとした情報処理もネット依存のおかげで確実に早くなったのは中毒性の影響に寄るものです。

 逆に失われた事もこの場では書きたいと思います。

 執着行動で一番失われたのは間違いなく時間です。

 なぜなら、執着というのは個人の求めているものであって、他人が求めているものではないからです。

 だけど、私は他人から愛されたい、認められたい一心で執着行動を取っていたのは確実であり、そこには薄っぺらいものしかありませんでした。

 愛された実感を経験出来なかった私は、そうすることでしか生きる事を知らなかったのです。

 

7.異性からどう見られるんだろう・・・??

 当時の私は、今以上に周囲に敏感でした。

 二十歳ぐらいのときは、思春期の症状のごとく外に出るのもとても緊張していて強いストレスで社会不安障害(SAD)と当時は心療内科で診断されました。

 身だしなみとか、その辺にとても敏感でデリケートだった気がします。

 当然ながら異性に対する関心というのは得たいが知れない要素が多いとは思っても、超というほど重大な関心ごとだったのはよく覚えています。

 しかし、異性と心を通わす体験をした事がなかったため、お互いにすれ違いばかりでうまくいかない事が本当に多かった。

 やはり、自己イメージというのはとても重要だし、自分がマイナス要素を背負っていると相手も同じマイナス要素を背負っている事がとても多いのです。

 両親がとても不仲で離婚しているパターンとか、両親との関係が悪く実家を飛び出してきたタイプまで関わった異性では居ました。

 お互いに異性に対して自分の見られ方に敏感ではあるけど、自分のことしか考えられない事が多かったために、お互いにすれ違いが多かった様に感じられました。


8.とあるバイト面接にて・・・

 私がニートの最中にとあるバイトの面接に向かった際に自己プロフィールという意味合いで文章を提出してしまった事がありました。

 自分には集中力があるだの、当時は長ったらしい長文を書いてしまったのですが今思えば、「そんなん読んでる暇ねぇよ!」って怒鳴られてもおかしくないぐらいに常識がなかった気がします。

 ただ、そういう部分が見栄っ張りとか、虚栄心に寄る要素が出ていて恰好をつけてしまう部分があったのは確かです。

 しかし、その社長さんはその文章を軽く読んでくれて、偉いね・・・ってなぜか肯定してくれたのです。

 「君は十分だよ」って言い方をされたのはよく覚えています。

 でも、あの時は本当に褒められたわけではなく「邪険にしても面倒だ」「認めてるところは認めてお引き取り願おう」という感情があったから発してくれたのだと思います。

 しかし、当時の私はそんな「偉いね、十分だ」という一言が本当に嬉しくて自己イメージの回復に影響が出たのは感じています。


9.最終的に執着突破の鍵は、安心感

 今だから言えますが、同性であっても異性であっても執着体質の鍵を握るのは他者との共感体験と、心をいかに通わす事が出来るか!?にかかっていると強く感じています。

 自分と感性、考え方が似ていると自分の生き方に自信を持てるばかりか自分自身の生きざまを肯定出来るようになるからです。

 恐らく、障害要素の有無というのは要素としては変わりはしませんが行動が変わることで結果も確実に変わるのは確かです。

 どんなに何かに依存してもその人の人生が輝くことはまずありません。

 私が10年間を棒に振ったのだから間違いないと思います。

 何かを極端にコレクターとして集めても、何かを極端に買い漁っても、お金を極端に稼いでも・・・心が豊かじゃないと幸せにはなれないからです。

 自分が積極的にやりたい・・・って思えるわけでない限り、虚しさ、虚無感は永遠に付きまといます。

 何かに追われて生きるような人生もその時には必然的に止まるでしょう。

 休みだけど何か落ち着かない、何もしないなんて耐えられないという事も確実に減って、休息することが確実にできるわけです。

 会社に出勤しても、大変な時は本当に大変だけど時間が過ぎるのが早く感じるようになってきたとしたら、それは確実に仕事に夢中になっている証拠であり自分の人生が充実している証拠です。

 仕事を楽しめとは言いませんが、どうせ8時間という仕事を行うなら夢中になれた方が間違いなく楽しいと思うのです。

 そして、同性であっても異性であっても下手な執着心がないことは本当に何をやるにも気楽な一面があり、相手も気が楽な事が増えるわけです。

 お互いに緊張する必要性がない事は、関係性を築きやすい美点があります。


10.今、人生で迷っている方々へ・・・

 私は10年という月日を確実に棒に振り、社会と孤立した人生を長い事生きてきました。

 しかし、他者と心を通わす体験をすることで自分の人生が徐々に切り開けてきている実感があるわけです。

 どんな方であっても、人生に手遅れはありません。

 社会的に不利になる人はいらっしゃるかもしれませんが、自己イメージの回復のためにも、自分と近しい感覚の人を見つけて心を通わせてお互いにより良い人生を送ることはできるのではないでしょうか。

 人は、自分と感性が近いと極端に安心して外に対して積極的なアプローチが出来るようになります。

 前向きに考えられることで、失敗しても建設的な思考で前に進む事が出来ます。

 一見困難に見えても、きっと切り開ける未来があるはずです。

 お互いに挑戦してみませんか?








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