シャンソン人形

柏木祥子

恋するシャンソン人形

 私の最近の趣味は、私のレネーにフランス・ギャルの名曲『夢見るシャンソン人形』を躍らせる動画を撮ることである。

 レネーは全長158cm、重さ27.9㎏で、シリコン製の人形である。顔はフランス・ギャルには似ていないが、髪型は似ている。私はこれに姿勢を取らせて写真を撮り、また姿勢を動かして写真を撮る。所謂ストップ・モーションで動画を作っている。動画編集ソフトはそこらへんの無料のものである。

 私はこうしたことには素人なので、どうにもうまくいかないのだが、人形はそうではない。人形は失敗をするということがなく、私がこう動かそうと思えば、そう動いてくれる。

 私のレネーは不器用ながら『夢見るシャンソン人形』を踊ってくれる。こう表現してみると、それはまるでパラドックスである。動画の中にいるレネーは残念なことに、うまく踊りを踊ることはできない。もちろんフランス・ギャルのようにシャンソンを歌うこともできないが、それは私が後ろに音楽を流せば歌うようになるのである。そのために口元が稼働する人形を買ったのだから。

 動画の中の踊りは、レネーの踊りなのか? 時折そんなことを、考える。もちろん、レネーの踊りなのだ。それを私は感覚として持っているが、うまく説明することはできない。

 これにはレネーというキャラクターが関係している。レネーは私の中から現れたものである。レネー・ゼルウィガーからとった名前である。しかし、ゼルウィガーではない。レネーはレネーである。レネーは人なのだ。人のように失敗する。人のようにしゃべりはしないが。

 であれば人形のようには喋るのか? これはしゃべる。私の頭の中で、彼女は人形のように、人形にしか感じ得ない苦痛をしゃべる。音声はないが、彼女は私が今まさに向かっているデスクの前で、安っぽい浜辺にあるような白いプラスティックの椅子に座って、愚痴をいう。愚痴をいって、腕をふって私に同意を求める。私は同意する。しかし同意するというよりも同意させられるというほうが正しいし、同意させてもらってるというほうがもっと正しい。

 私はレネーに質問をする。内容はない。答えもない。質問だけが宙ぶらりんになっている。それは正しい。なにも正常でないということ以外は。

 否定と肯定を繰り返すのは疲れる。私はレネーに人形であって欲しいし、キャラクターであって欲しい。まかり間違って人になどならないで欲しい。人形は動かないし、喋らない。ただ生きているだけなのだ。

 それがどんなに苦痛なことかわからない。わからないに決まっている。人形じゃないのだから、レネーの気持ちなどわからないのだ。ただ想像して憐憫することができるだけで、私になにができるわけでもない。私は動画を撮る。レネーを躍らせる。そうすると、生命感が宿る。

 すると困る。困る。困るの。困るので、撮るのをやめる。するとレネーは人形になる。私まで人形になってきたように思える。

 フランス・ギャルの踊りは単純なものだ。腕を振ったり、頭を動かしたり、今時のアイドルのように激しく踊るわけじゃない。動画を見てもらえばわかる。URLはWWW……それはちょっとマズいか。

 とにかくそれは、まず難しいものではない。私にだって踊れる。踊りたくないだけで。踊りたくないが、踊るしかない。


 ここで一番良いと思ったのは、ここになにか踊っている図を描くことである。しかしやり方がわからなかったし、やりたくもなかった。

 だから本当はあまりよくない方法だとわかりつつも、一先ずここに図を描くのはやめて、ただ人形について語ってみようと思う。

 さっきから人形の生命感だの人になるだの喋るだの書いているが、私自身はどれも信じているわけでもない。信じるというのは伴うべき根拠がなくても受け入れることだ。もしそうなら信じるというのはさほど重要じゃない。重要なのは感じることである。(信じること感じることどう違うのかそう思うかもしれないが信じるというのは行為行動であり感じることは受動的なものであり感じた時点で信じているので信じるという行為行動は必要ない)(また感覚を疑うというのは今のトピックとはまた違う話なので関係はない)

 私の感じるところ信じるところ(この場合の信じるとは行為行動としての信じるではなく現在進行ステータスとしての信じるである)によると、人形とは一種の鏡像である。もちろんそれは人形にキャラクターを植え付けるという行為をしてもしなくてもそうである。私たちは人形を見るときその人形になんらかの感情を見る。なにも感じないということはない。それは同情心である。これは、人形以外でもなんでも――トースターに対してさえ抱くことのできる感情だが、その感情の中で擬人化されたトースターに宿る人格とは、すなわちあなたである。人形に対しては、それが濃くはっきりとした輪郭として現れる。

 そのため私は踊らなければならないのである。それは私が人形に同情心を抱きシンクロを起こしてしまったということで、これはカフカのような不条理劇でもなければキングのようなホラーでもない。ただの馬鹿げた心理の話である。

 私はシャンソン人形を踊る。人形になる。人形になって踊る。髪を整えて、そこで踊れないことに気づく。私はレネーではない。レネーのように美しくないからだ。

 美しい人形に対する心理は自明である。それは私ではない。それは劣等感がひどいほど乖離するが、レネーは至上の美しさである。私はそうではない。私はレネーに侮辱をしてしまったように感じる。


 魔法のようにダイエットが出来て、股の間のものをなくし、私の顔が鏡にうつるように美しくなったのなら、レネーは私になるだろうか。

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