第4話
入部から二ヶ月がたち、じめじめとした梅雨も終わりが見え始めた頃、僕は漸く袴を着て弓を引けるようになっていた。
結局のところ、一年生で最も後で的前に立つことになったのは恥ずべきところである。
対して白神さんはなんと見事なごぼう抜きを見せ、1年生の中でも最も早く的前に上がってみせた。ペースだけでいえば先輩たちを入れても異例のものだったらしい。
そんな白神さんは、的前に上がってからもその調子は右肩上がりで、黒板に記録されている的中は二重丸ばかりであった。
弓道の記録は基本的に丸印と斜線で二本ごとに表されており、二本当たれば二重丸、二本外れればバツ印と書かれる。
三年の先輩であれば、白神さんのような記録を出す人も一人だけ居たが、二年の先輩たちの中には居なかった。調子のいい日であれば多少は匹敵できることもあるのだろうが、白神さんの場合は的前に上がってからずっとそんな調子なので、最早敵無しと言った風であろう。
僕はどうかと言われれば、連日バツ続きである。と言っても、的前に上がったばかりの一年生としては珍しくないどころかそれが普通なのだ。件の迫田であっても僕と同じような状況に苦い顔を浮かべていた。
迫田は弓を引くときに番えた矢を避けるように顎を上げる癖があった。これは的前に上がって顕在した悪癖で、あまり望ましいものでは無いらしい。
今も僕を含む他の部員によって静かに見守られながら的前で先輩たちに混ざって弓を引いている迫田はその悪癖を披露してしまっていた。
弓道の練習の中に見取りというものがある。通常、競射は五人が順番に弓を引いていく競技である。一巡一射、計四巡四射を引くのが通常の試合形式である。この見取りはその試合形式に近い練習形態であり、射手である五人以外は、この五人の射型を道場の外から見学しなければならない。今現在行われている練習がこれである。
一射目、鋭い弦音が静寂に包まれた道場を切り裂く。が、的に当たったような音はしない。外れたのだ。
後ろで引いている先輩たちは次々に的を破る音を響かせる。
「しゃあっ」
見学している部員たちが揃ってそう掛け声をあげた。それに習い僕も同じように声をあげる。見取り練習のときに的中した場合は決まってその掛け声をしなければならなかった。
次々にその掛け声があがり続け、また迫田の番が回ってきた。やはり、顎は斜め上を向いていた。
「あーあ、またドヤ顔してりゃ。川越シェフかよ」
隣にいた木村先輩がそんな冗談をぽつりと言うので、僕は思わず吹き出してしまった。
僕の声にならない笑いが飛び出た刹那、ずさっという土を擦る音が的の方から聞こえた。やはり、外れてしまったのだ。
思わず、迫田の方を見ると彼は僕をまるで親の仇を見るかのような鬼の形相で睨みつけていた。
不味い、と思った僕は咄嗟に顔を伏せる。
後で何を言われるかたまったものではない。
「何笑ってんだ」
木村先輩が僕の肩を殴る。しかし、その声色はやはり真剣なものではなく、巫山戯交じりだった。自分のつぶやきが受けたのと、迫田の般若顔が面白かったのか、その顔はどこか喜色が混じっていた。
結果的に言えば、迫田はその後の二射も外してしまった。僕は矢を刺さった係だったため最後まで迫田の射を見ることはできなかったが、看的場から見えた飛んできた矢はどれも、先輩たちのものに比べるとどこか弱々しさを感じさせた。
刺さった矢をまとめて拭いき、道場内の矢箱に仕舞いにいくために、部室棟の前を通っていると、見取り側に回るために移動していた迫田と出くわしてしまった。
迫田は僕を見つけるなり、早足で僕に近寄ってきた。
「そんなに面白かったか」
開口一番、迫田は苛立ちを隠そうともせずにそういった。
「えっいや、迫田の射型で笑ったんやないよ」
「あ?」
言い訳するな、とでも言いたげな目を向けられる。実際、言い訳になってしまうのだが、僕としては文句は木村先輩に言って欲しいところである。しかし、さすがにそれを言うのは不味いので萎縮したように身をすくねる真似をすることにした。
「そんなに面白かったんか? 俺が当たらんのが」
迫田は鼻息が掛かる距離まで顔を近寄らせ、怒気を言葉にして僕に投げかける。
「違うって」
「人が失敗するところが、そんなに面白いんか」
「それは…」
木村先輩が、と言いかけたところで先程の迫田の顔と木村先輩の冗談が頭を過ぎった。すると、何故だか腹の底から滑稽なものが湧き出てきて
「ぶふっ」気がつけば吹き出していた。
やってしまった、と思った。が、全てはもう遅く、気がついたときには僕の鳩尾に迫田の握り拳がめり込んでいた。
「お前みたいなしょーもないやつに笑われる筋合いはないわ!」
鈍い痛みを訴える腹を片手で抑えて蹲る僕に対して、そう吐き捨てて歩き去っていく迫田の語気にはどこか悲しみのようなものも混ざっているような気がした。
「いてて…いてて…」
右手に持った矢束を汚さないように頭の上に翳しながら、腹の鈍痛がひくのを待つ。ほんの少しだけ悪いことをしてしまったかな、と思いながらも、すぐに手が出る迫田を酷く軽蔑してしまうのは果たして僕が悪いのだろうか。
数十秒、もしくは数分そうしていたが流石にさっさと仕舞いに行かないとまずいことになるので、痛みに我慢しながら道場に向かうことにした。
道場内では次のグループがもう引き始めており、二射目の終盤に差し掛かっていた。
僕が矢をあらかた仕舞い終わった刹那、明らかに他とは際立って違う、竹を割ったような弦音が道場を揺らした。そして、それとほぼ同時にパァンという破裂音が的場の方から跳ね返ってきた。
射手に目を向けると、それは白神さんだった。
綺麗に的中させたというのに、白神さんは平然と何も無いように射法八節を遂行していた。まるでその様は教本に書かれている射型の手本がアニメーションになったかのようだった。
誰もがその様に我を忘れ息を飲む。その証拠に、当たった時にあげる掛け声が数秒遅れていた。
残心すらも、どこか優雅さや清廉さを感じさせる。それは白神さんの容姿が優れているからではなく、白神さんの射型が極めて整っていることの証左であった。
僕が我に返ったのは、次に引いた先輩の弦音を聞いたタイミングだった。意味もなく長居する訳にはいかない。僕はすぐに道場から逃げるように飛び出た。まだ、懐の鈍痛は収まっていなかった。
見取りに戻ると、端っこの方にいた二年の先輩たちがなにやら小声で話していた。
「あの体型で20kg引いてんだから、信じられんよな」
「経験者だったとしても異常やわ」
それはどうやら白神さんについて言っているようだった。
弓には重さがある。現代では分かりやすくkgで重さが表現されており、部内の平均としては大体13kgくらいだろうか。
重さと言っても筋力にものを言わせて弓を選ぶのはあまり良くないらしく、一年生の多くはかなり軽い弓を引かされていた。木村先輩曰く「弓は筋肉じゃなく骨で引け。 それを身体に叩き込むまで重い弓は引かせん」とのことだった。
と言っても、僕のようなひょろひょろ元帰宅部の部員や非力な女子たちではそもそも重い弓など引けないのでなんの意味もないお達しではあったが、白神さんだけは例外であった。
試しに先輩が部内にある最も重い20kgの弓を白神さんに引かせたところ、なんとそれを軽々引いて見せたのだ。しかも、その射型も恐ろしいほど変わりなく、綺麗なままだった。それ以降、20kg弓は白神さんの持ち弓になったままだ。
「射型めっちゃ綺麗やし、めっちゃ当てるしで、なん教えればいいか困るわ。 寧ろ教えて欲しいわ。めっちゃ可愛いし、もっと仲良くなりてぇ」
「わかる」
けらけらと笑い合っていたが、盗み聞きをしていた僕を見つけるなり「はよ見取りいけ」と先輩としての体裁を優先してどちらとも黙ってしまった。
僕は適当に返事をした後、列の最後尾に並んだ。白神さんのグループはすでに引き終わっていたようで、道場内に白神さんは居なかった。刹那、肩を叩かれる。
「……」
ここで軽率に振り向くことはしない。
また叩かれる。
「……」
一定のリズムで叩いてくる感じはどこか遊んでいるようだった。しかし、それに応えずに無視を続ける。
ようやく飽きたのかリズムが止んだ。と、思った矢先「ひゃっ」首元に生温い息が吹きかけられたせいで変な声を上げてしまった。
今度こそたまらず振り向くと、やはり右頬にぴとりと白い人差し指が刺さった。
「はいアウトー」
白神さんがにやにやと笑っていた。肩を叩いていたのも、息を吹きかけてきたのも白神さんであることは明らかであろう。
「見取りに集中せんと怒られるよ?」
頬に指を突き刺したまま、白神さんはわざとらしくむっとした顔を作って見せた。
「息…」
「ん?」
「いや、いい…」
息を吹きかけてたか?という言葉を舌から先に放つ前に、問い詰めるのがなんだか恥ずかしい気がしてやめてしまった。
「息ふきかけたの、またして欲しいん?」
「やめてッ」
僕の羞恥心を無神経にも弄ってきた白神さんへの抗議の声は少しおおきかったようで、咄嗟に前の列の方へと目を向けると、こちらを訝しげに見ていた皆と目が合ってしまった。
そんな何対もの目の群れから一対だけこちらへ向かってくる者がいた。言わずもがな、迫田の双眸である。
「いい加減にせぇお前ら…」
怒りで茹で上がっている迫田の目は僕にではなく、白神さんへと向いていた。
「ちょっと話してただけやん」
「見取り中は私語厳禁や。 いいから黙れ」
白神さんは声混じりのため息をつくと、どこか不機嫌そうな様子で黙った。
ほんの一瞬だけ、僕の方へ視線を向けたあと迫田は元いた場所へと静かに戻って行った。他の部員たちはこちらへ視線をぶつけないようにじっと、的前の五人へと視線を収束させている。
白神さんも不機嫌混じりではあるが、真面目に見取りに参加し始めた。たった今、当てた一本への応援の中に透き通るような高い声が混ざったのがなによりの証左であろう。
僕もそれに倣うようにできるだけ大きな声で応援をすると、白神さんがまたくすくすと笑った。恥ずかしかったが、なんだか嬉しかったのは何故だろうか。
夕日が完全に地平線に沈み、あたりも真っ暗になろうとしてるとき、ようやく全ての見取り練習が終わった。残るは終わりの号令と、ちょっとの自主練時間。そして件の鍵閉めを含む片付けだけである。
とりあえず号令を実行するため僕たちが撤収をしようと細路を渡ってる時に右肩を後ろから殴られた。振り向くと、木村先輩が神妙な顔で立っていた。
「えっ」
「振り向くなや」
木村先輩はそれだけ言うとそのまま道場へと言ってしまった。なにぶん、一瞬の事だったのでそれが茶化しなのか、本当に怒っているのかの区別はつかなかった。
ただ、肩にこびり付いた痛みの残響だけが涼風に呼応して、じんじんと嘯いていた。
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