第3話
部活が終わり、そして片付けが終わった午後7時10分頃、鍵当番だった僕は他の部員よりも少し遅くまで道場に残っていた。闇の帳が完全に下ろされ、土と草の匂いが涼しい風に乗って僕の頬を撫でる。
男の先輩たちの更衣室が道場内にあったため、鍵当番の僕は先輩たちが全員着替え終わるまで待たなければならなかったのだが、毎回の如く先輩たちは中々出てこない。
そのため、鍵当番になったやつは他の一年生から置いていかれるのが最早恒例行事となっていた。
特に遅いのが木村先輩で、よく大きな笑い声が小さな更衣室から道場の玄関まで届いていた。急かす訳にも文句を言う訳にも行かないので、一年生はただひたすらに玄関前の階段に座して待つしか無かった。
僕はそうして先輩たちを待っている間も、じっと親指の付け根に巻かれた白いテーピングを眺めていた。あの後ゴム弓を引いたせいで、綺麗だったテーピングも皺が目立っている。
なんとなく、ぐちゃぐちゃなったテーピングを嗅いでみるとどこかで嗅いだ記憶のある匂いがした。
なんの匂いだったかこれは、そうだこれは。
「──お葬式と似てる匂いするよね、それ」
気がつくと階段の上に白神さんが立っていた。
「お葬式…?お葬式っていうか」
「人が、タンパク質と硫黄の塊が焼け落ちた匂いっていう表現のほうがよかった?」
「……さぁ」
人が、タンパク質と硫黄の塊が焼け落ちた匂い。そうだ、この匂いに似たものを嗅いだのは、僕か五歳のとき両親の遺骨が無機質なテーブルの上に散らばらされた時のことだ。
「鍵当番やろ、四谷くん」
ウチもよ、と白神さんは変なオッサンのストラップが着けられた女子部室の鍵をひらひらと見せびらかした。
「先輩たち、まだ掛かりそうやね」
「やね」
白神さんは徐に僕が腰を置いている段にまで降りてくると、何も言わずに僕の肩を押した。僕はさっと腰を横にずらすと空いたスペースに白神さんが座った。今の胸の鼓動が聞こえてないか不安になる。
しばし無言の時間が流れる。沈黙の気まずさを手遊びをして誤魔化している僕に対して白神さんは特に気にしてないようにただフェンスの向こうに佇んでいるちょっとした墓地をみつめていた。
「四谷くんってさ」
思わず白神さんの方を見る。
「見える人よね?」
「えっ?」
見えてる、とはなにがだろうか。白神さんは何が言いたいのだろう。
「墓地の方、何匹いる?」
その言葉は、さっきまで高鳴っていた僕の胸を違う意味でさらに高鳴らせた。僕は白神さんが目を向けている墓地の方に顔を向けた。五人ほど、煙のような黒い影が立っている。今日は少しだけいつもより多い。
「……五人」
「やっぱり」くつくつと笑った。
「四谷くんは人で数えとるんや、あれ」
ひどく冷徹なことを言っているのにも関わらず、白神さんの声色は普段と変わらない優しいものだった。それが逆に不気味に感じてしまう。
「白神さんも、見えるん…?」
「まぁなんとなくは。 数をはっきり認識出来るほど私は目も良くないし、感も良くないけどね」
「じゃああれがなんか知っとるん?」
「さぁ?」
困ったように笑う白神さんからは、その言葉の真偽が一切読み取れなかった。それは僕が鈍感だからか、白神さんの持っている神秘性に寄るものなのかはわからない。ただ、白神さんはきっと何かを知っている。知っている上で惚けているのだ。
根拠はないが、僕の頼りない直感がずっとそう叫んでいた。
「四谷くんは、あれ何歳から見えとるん?」
「よおわからん。 物心がついた時から見えとったから」
「ウチもそんな感じ。 家が神社やけかな?」
「白神さんちって神社なん?」
「そそ。 ほら駅の近くにある野伏神社の」
野伏神社。 たしか駅から数百mほどさきにある野伏山の麓に建っているそこそこ大きな神社だったはずだ。
「初詣か、祭りでもないとそんなに人来ないんやけどね。 言っても祭りの時の屋台も駅の前に何軒か建ってるくらいやけど」
ちょうど先週くらいに駅の前の交差点に三軒ほど屋台を見かけたことを思い出した。最もそこで買い物をしてる人は精々、商店街のお年寄りか部活帰りの高校生数人しかいなかったような気もするが。
「昔はね、沢山屋台も建ってたらしいんやけどね。今じゃさっぱり」
柵の向こうに並んでいる住宅地が寂しく佇んでいるように見えた。そこからは生々しくどこか侘しい生活臭が漂ってきていて、不思議とノスタルジックな心持ちになってしまう。
「四谷くんはあれをなんやと思うとる?」
「墓場でふらふらしよるやつらのこと?」
「そう」
墓場で蠢いているそれらはまるで風に揺られる葦のように存在の輪郭自体を揺らしながら並ぶ墓石の合間を酔歩していた。届くわけもないのに、僕はそこへ向けて足元の小石を投げつける。小石は着地とともに音もたてずにどこかへと転がり消えてしまった。
「墓場とか、病院とかでよく見るし、幽霊なんじゃないの」
「幽霊かー…そういうの信じるタイプなんやね」
「信じるっちゅうか、現にそうとしか言いようがないやん」
「うちの知り合いが言うには」そう前置きをして白神さんは立ち上がった。
「あの変なのは煙とか灰のようなもんらしい」
「煙とか灰?」
白神さんはフェンスまで歩いていくと、フェンスの合間を両手で握り、向こうにある墓場の方を凝視した。僕もおずおず立ち上がり白神さんの三歩ほど後ろで話を聞くことにした。
「人って色んなことを考えながら生きてるでしょ? その思考って実は燃焼してるようなもんで、ある種のエネルギーの変換なんだって」
「思考じゃなくても願望とか欲望とか、まぁ感情を元手に皆それを何かに変換し続けながら生きてるんだ。 無意識ながらに」
「でもさ、何かを生み出すのって大抵、同時に望まない予期してない廃棄物が生まれる」
「それが、あれ」
指をさされた彼らは寂しくゆらゆらと揺れている。
「じゃあ、あれは煙と一緒っていうこと?」
「分類的には似てるんやないかな」
「それはおかしいと思うんやけど。 煙みたいなもんなら、死んだ場所におらんで墓場でうろうろしよるのは変やろ」
「そこに居るよう、望んでる人がおるけ、あれらはあそこに集まっとるんやない」
知らんけど、とどこか投げやりに付け加えて墓場に向けていた身体を翻し、フェンスにもたれかかった。白神さんの双眸に沈む夕陽と僕の間の抜けた顔が写し出されている。
「さっきも言ったけど、ああいうのは煙みたいなもんなんよ。いずれは忘れ去られ消えゆく儚く不安定な存在」
「人の成れの果て、と言うよりは人の絞りカス。 蔑み、祓い、疎むものであって、悲しむものでも恐れるものでも、ましてや尊ぶものでもない」
「呪は成せど、徳を成すことはせず。であるのならば迎合も信仰もすべからず。 見えぬのならば良し、見えるのならば黙して唾棄すべし」
「自ずから関わるようなことは持ってのほかだよ──なぁんて知り合いは言ってたんやけどね」
白神さんがそう誤魔化すように笑った刹那、ドアが強く開けられた音が僕らの間に飛び込んだ。そしてその音に追いつくようにして先輩たちが玄関からやいやいと騒ぎながら飛び出でてきた。いつも着替えるのが遅い木村先輩がそこに居たので恐らくこれで全員出たのだろう。
「やっと着替え終わったみたいやね」
「あっうん」
木村先輩たちは僕たちに気がついてなかったようでそのまま道場の敷地から出ていってしまった。
「うち、部室棟のところで待っとるから」
「えっ」
なんで、と聞こうと思ったが白神さんはすでに階段を上がった先の部室棟の方へと歩き出していたので呼び止めることが出来なかった。これは一緒に帰ろうという誘いだと思っていいのか、聞いてしまうのは無粋なのであろうか。
そんなことをつらつらと考えながら、木村先輩がさきほど開け放ったドアを慰めるように静かに閉ざし、ドアノブに鍵をさしこんだ。
「あ…念の為に確認しといた方がいいかな」
何の気なしに、そう思った。以前、誰かが確認せずに鍵を閉めたせいで先輩の誰かが閉じ込められたという出来事が念頭にあったからだった。
恐らく、大丈夫だろうとは思うが、確認するに越したことはない。僕はドアを開けて完全に暗闇に包まれた道場内に注意を払った。
やはり、誰もいない。
「大丈夫かな」
そう呟くと、まるで返事をするかのように「ぎぃ」と木の軋む音が妙なほどはっきりと鳴り響いた。
音の鳴る方へ目を向けると、更衣室のドアがほんの少しだけ開いていた。
「誰かいるんですか?」
そう聞いてみるが、返事はない。音は風のせいか。
「居ないなら閉めますよー?」
やはり返事はなかったので今度こそ道場から出て、鍵を閉めようと思った。
「ぎいいぃ」
さっきよりも明らかに大きな音を立てて、ドアがゆっくりゆっくりと前に、僕が立っている玄関へと向かって開き始めた。
何故だか、そこから目を離せない。呆然と立ち尽くして僕はただそのドアが開くのをじっと見つめていた。その間もドアはまるで金切り声のような音をたてながらゆっくりと、しかし着実に更衣室の景色を露にしていく。
何かいる。
ぼんやりと、僕はそう思った。途端に、妙に冷めた風が部屋の方から吹いてきて、僕の頬を愛おしそうに撫でた。どうにも目が離せない。
呼吸をするのも忘れて、ただただ目の前で開きつつある木製の扉を見つめる。だらしなく開いた口から涎がたれているのがわかったが、それを拭う気にはなれない。
半分まで扉が開いたとき何かの白い長髪が見えた。まるで枯れ技のように傷んだそれは重力に引っ張られるがまま床に着地していた。
そして、次は流線を描いている肩。折れそうなほど細い首。白く痩せこけた頬。
やがて、その相貌がいよいよ明らかになる。
が、肩を叩かれた。我を忘れていたため、反射的に僕はそちらの方へと振り返る。
「はい、アウトぉ」
頬に白くすらりとした人差し指が刺さる。肩を叩いた白神さんは悪戯っぽく笑っていた。
「本当に四谷くんは学習せんねぇ」
「…ごめんて」
白神さんはけらけらと笑った。
「てか、涎やば」
「あっ」
気がつけば、垂れていた涎は下顎を通過して襟袖にまで到達していた。思わず手で拭おうとすると、
「手で拭わんで、これ使って」
と白神さんが花の刺繍がなされた白いハンカチを手渡してきた。申し訳なかったが、渋々それを受け取り涎を拭き取った。洗って返すというと、いいからと言われハンカチをひったくられてしまった。
「早くせんと校門閉まるばい」鍵を閉める僕に白神さんが言う。
「…やね」僕がそう返事をすると、白神さんは特になんとも言わずに、ゆっくりと階段を上がっていった。
ふと、僕は先程のことが気になり、ドアノブに手を掛けた。もしかしたら、誰かがまだ残っているかもしれない。
本当に四谷くんは学習せんねぇ
何故だか、さっきの白神さんの言葉が脳裏に過ぎった。しかし、僕は構わずにドアを開けてさっきの扉の方へと視線を向けた。
──ドアはしっかりと戸締りされていた。
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