第2話

 道場では先輩たち二年生、三年生や巻藁を引く一年生で埋め尽くされていた。その中には迫田も居たが、僕達を一瞥するなりすぐに目線を逸らし、練習に意識を向けた。

 

 それを見た白神さんは僕に顔を向け少し笑った。


「まだ怒っとるみたい」


 僕は何も答えられなかったが、白神さんは特に気にした様子もなく、道場の後方にある棚から救急箱を取り出し始めた。


「てのひら、広げて」


 白神さんの言葉に従い、僕は左の掌を白神さんへと差し出す。白神さんは慣れた手つきで僕の親指の付け根に小さく切り取った絆創膏を貼り付け、白いマスキングテープを器用に巻き付けた。


「これでとりあえずは大丈夫。 お風呂に入る時はちゃんと外しといて。 明日また巻いたげるから」


「あ、ありがとう」


「お礼を言うのはいいけどちゃんと自分でも巻けるように練習しときいよ。 ゴム弓でもマメ出来るくらいなんやから弓を引き出したらもっと酷いことになるばい?」


「はい、精進します…」


 ジト目を向けてくる白神さんに僕は申し訳なさそうな返事をかえすのが精一杯だった。


「よろしい…あっ」


 白神さんがそういったの同時に、僕の肩に軽い衝撃が二回ほど乗った。僕は反射的に振り向こうとすると、


「だめよ、四谷くん」


「…えっ?」


 それよりも前に振り向こうとした方向の頬に白神さんの手が置かれた。


「ルール、忘れたん?」


「あっ…そっか」


 誰かがあのルールに従い僕の肩を叩いたのか。また迫田だろうか。いや、ここは道場内なので先輩という可能性も十分ありえる。もし、振り返っていれば下手をすればお叱りを受けたかもしれない。


 僕の頬に白神さんの綺麗な手が置かれたまま、ゆっくり時間が過ぎる。その間、白神さんは僕を見ず、じっと僕の背後にいるであろう誰かを微笑みながら見つめていた。先程まで、道場を支配していた布が摩れる音、誰かがした咳払い、弦が弾かれた音、的に矢が当たった音、そんな環境音たちから阻害されたかのように錯覚してしまうような静寂が僕らを包み込んだ。


「………ん、もういいばい」


 しかし、その静寂は白神さんの朗らかな声で終焉を迎えた。それともに頬に添えられていた柔らく、どこか心地よい感触がゆっくり溶けるように消えてしまった。


「えっと…あの」


「ルール、ちゃんと守らんと、ね?」


 くすり、と笑うと白神さんはまるで花から花へと踊る蝶のような気まぐれさを思わせる歩調で道場から出ていってしまった。それを僕はただ呆気に取られたまま見ることしか出来なかった。


「おい四谷ぁ。 なに部活中にいちゃついとんやぁ」


 そう、後ろから小突かれたので振り向いてみると木村先輩がにやにやと揶揄うような笑みを浮かべながら立っていた。


「あっすみません」


「入部そうそうツガイが見つけられたようで羨ましい限りですわ。えぇ?」


「つ、ツガイって…そういうのじゃないっすよ」


「そりゃそうや。白神さんみたいな子がお前みたいな冴えないやつ相手するわけないもんな。揶揄われてるだけや。 それをわかってるとは中々見所があるやつやんか」


「そういう言われ方も、なんか否定したくなるんすけど」


 木村先輩は三年生の先輩で、入学してまもない僕を弓道部に勧誘した人でもあった。

 その容貌と人柄を一言で表すのなら快男児、という言葉が真っ先に思いついてしまうほど、構成する全てが「イイ男」をこれでもかと言うほどに演出されていた。


「ていうか先輩ですよね。さっきの 」


「? なんが?」


「肩を叩いたのですよ」


「肩…肩…あぁ、あの決まりのことか。 俺やないけど?」


「えっそうなんですか?」


「あの甘ったるい雰囲気の中、割り込んでいけるようなやつがいるなら俺は尊敬するわ」


「はぁ…」


 てっきり木村先輩が揶揄うために肩を叩いたかと思っていたがどうやら違ったようで、僕の的違いな私指摘に先輩はすこし困ったような笑みで返した。


「じゃあ一体誰が」


「知らんけど、少なくとも俺が見た限りじゃ誰かがお前らに近寄ったよったりとかはなかったよ」


 木村先輩は言い終わると、僕の背後に置いてあったギリ粉を掛けに付けてそのまま、また的前にたって練習を再開してしまった。

 暫く、僕はその場から動くことが出来ず白神さんから巻いてもらったテーピング箇所をじっと見ていた。


 僕は背後に感じていた何かの気配を気にしないようにするために、気を紛らわすかのように、じっと自分の頼りない掌を見つめていた。

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