第2話 これが俺の教え子たち(成海陽加の場合)その②

「やっと二人っきりだね……」


 そう言うと陽加はゆっくりと俺の方へと歩み出し、するりと俺の腰に両手を回しながら、自らの豊満なバストを押し当て始めた。


「ん〜〜明日真っちの匂いだぁ〜〜。ずっとこうしたかったぁ。えへへ、すんすん……」


 くすぐったいほどに俺の肩近くに顔を埋める陽加。彼女が動くたび芳香剤のような柔和な香りが鼻腔を刺激する。


「陽加……」

「ねぇ明日真っち。勉強なんてつまんないことより私とイイコトしよ?」

「イイコト?」

「そ。今ならママもクッキー作りで忙しいだろうから一時間は邪魔が入らないよ? だから。ね?」

「お前そのためにさっきクッキー頼んだのか?」

「うん。だって邪魔されたくなかったんだもん。だからほら、明日真っち。今から私とイイコトし——」


 陽加が何かを言い終わる前に、俺は腰をホールドする彼女の手の甲を思い切りつねった。


「ぃぃたたたたたた!! 痛い、痛いよ! 明日真っち!」

「全く! どこで覚えてくるんだそんなアホみたいなセリフ!」


 目尻に涙を溜めながら自分の手の甲をさする陽加はボソリと小声で呟く。


「……男子たちが読んでたエロ漫画」

「んなもん読んでんじゃねぇ! とにかく、真面目に勉強する気がないなら俺は帰るぞ」


 本当にドアに向かって歩み始めた俺を見て、さすがの陽加も慌てた様子で腰にしがみついてきた。


「ごめん、ごめんなさぁい! 真面目に勉強するから帰らないでぇ。お願い!」

「……ったく」


 やれやれと溜息をいた俺は、まるで子犬のようにシュンとなった瞳でこちらを見上げる陽加に顔を向ける。


「お前なぁ、毎回言ってるけど冗談やその場しのぎで男をからかうもんじゃないぞ? もしその言葉を本気に受け取った奴がヤバい男だったらどうする?」

「……ないもん……」

「ん? なんて?」

「明日真っち以外にこんなコト絶対しないもん!!」


 その瞬間、俺は言葉を詰まらせた。顔を跳ね上げ、まっすぐこちらを見つめる陽加の目があまりにも真剣そのものだったからだ。翡翠ひすい色の透き通った彼女の瞳にたじろぐ自分の姿が映り込む。


「私、本気だよ? この世で一番明日真っちのことが好き。大好き。ねぇ? 明日真っちは? 明日真っちは私のこと……嫌い?」


 ズズイっと自らの肢体を寄せてきた陽加は、互いの胸部が触れるほどの至近距離で幼気いたいけな少女のような視線で俺を見上げる。


「いや……嫌いとかそんなんじゃ……」

「じゃあ“好き”……?」

「じゃあってなんだ、じゃあって。そもそも俺とお前は家庭教師とその生徒なわけで——」

「でも、恋人になっちゃいけないわけじゃないよね?」

「いや、だから、それは……」


 柔らかな肌から伝わる体温、互いに感じる生暖かい呼吸、冷静さを失わせる甘美な香り。様々な要因が俺から理性という名の鎖を奪おうとしたその時、ちらりと視界に入った白い紙に俺の意識は持って行かれた。


「……おい。陽加。アレはなんだ?」

「ん?」


 気分が最高潮に達していたのだろうか、頬を真っ赤に染めながら何かしらの次のアクションを期待していた陽加の顔から一気に熱が引いていく。


「あー……うん……あれはそのー……こないだやった小テストの答案かな……」

「見せろ」

「いやー、うん、あははっ……見なくても大丈夫だよ。それよりほら! こっちを見て見てー。おニューのパンツ! チラッ! チラッ! なーんて……」


 陽気にスカートをめくりながら、ウインクをかます陽加に俺はたった一言述べた。


「見・せ・ろ」

「……はい」


 観念した彼女から答案用紙を受け取った瞬間、俺のこめかみに青筋がピキリと走る。その様子を見ていた陽加は『ひぃっ』と小さく呟くと、先ほどまでの小悪魔モードが嘘だったかのように小さく体を丸め始めた。


「この問題……この前教えたばっかのとこだよな?」

「ひゃい……」

「ここと、ここも」

「ひゃい……」

「じゃあなんで丸じゃなくて赤いペケが引かれてんのかなー?」

「私が間違えたからでしゅ……」

「だよなぁー! じゃあ今から何をするかも分かるよなぁー?」

「ふっ、復習と反省ですっ!」

「分かったらさっさと椅子に座れぇぇ!!」

「ひゃいいぃぃ!!」


 この後、半べそ状態の陽加にみっちりと勉強を教えたのは言うまでもなかった……。


****

****



「お、終わったぁぁー」


 約一時間半のスパルタ勉強を終え、背もたれいっぱいにその身を預けながら天井を仰ぎ見る陽加。


「ご苦労さん。一応今日教えたところは他にも応用が利くことも多いから忘れないようにな」

「はぁ〜い」


 と、勉強もひと段落ついたところでタイミングよく陽加の母がドアをノックし、木製のトレイに紅茶とクッキーを乗せて部屋に入ってきた。


「お勉強中失礼します。先ほどクッキーが焼けましたので宜しければどうぞ」


 陽加の要望通り、生地から作ってくれたのだろう。香ばしいバターの香りと甘い匂いが部屋中に広がる。


「ご丁寧にありがとうございます。ありがたく頂きます」

「ありがとママー! 丁度頭使って糖分欲しかったとこなんだよねー。う〜ん、美味しいっ」


 机にトレイが置かれた瞬間、どら猫のようにクッキーをかすめ取り口に運んだ陽加は見るからに幸せそうな顔で頬に手を当てサクサクと咀嚼した。そんな彼女の様子を見て俺はなぜかクスリと微笑んでしまった。


「こら。この子ったら先生より先に食べてどうするの」

「いえ、良いんですお母様。陽加さん、勉強頑張ってましたから」

「そうですか? 先生がおっしゃるなら」

「そうそう。明日真っちが言ってんだから良いの良いの! それよりほら! 私たちはまだ勉強があるからママはリビングに戻った戻った」

「あらあら、この子ったら」


 陽加は急かすように母親の背中をグイグイ押しながら、まるで彼女を追い出すかのように部屋の外に追いやる。


「では先生、あと少しの間この子をよろしくお願いしますね」

「はい。お母様。クッキーと紅茶ありがとうございます」


 まだ何か言いたげな雰囲気だったが、陽加は御構おかまい無しにバタリとドアを閉めてしまった。


「お前、もう少し母親をいたわったらどうだ? こんなうまいクッキーを手作りしてくれる親なんてそうそう——」

「ねぇ、明日真っち」

「ん?」

「気晴らしにちょっとした“ゲーム”しない?」

「“ゲーム”?」

「そ。このクッキーを使って」

「クッキーを?」

「名付けてドッキリクッキーゲーム!」


 正直言うとこの時点で嫌な予感はしていたのだが、一応彼女の言い分を聞いてみることにした。


「ルールは至ってシンプル。私がクッキーをくわえるから明日真っちが端から食べて行って唇が触れたら負け。罰ゲームは——」

「やらん!」


 聞いて損した。やっぱりそんなことだろうと思った。


「なんでぇー!?」

「なんでもどうしてもあるか! そんなのただの○ッキーゲームじゃねぇか! 合コンじゃあるまいしそんないかがわしいゲーム絶対——」

「私、勉強頑張ったのに……」

「うっ……!」


 珍しくシュンとなった陽加はいじけた様子でこちらを見上げてきた。


「大嫌いな数学、あんなに頑張ったのに……グスン……」

「それ嘘泣きだろ絶対!」


 プルプルと体を震わせ鼻を鳴らす陽加。これは確実に嘘泣きだし俺がそのゲームをやる義理はこれぽっちもないのだが、全く引く様子がない彼女に俺は根負けしてしまった。


「分かった、分かったよ! 一回だけだぞ?」

「ぃぃやったぁぁ!! 明日真っちのそういう優しいとこ大好き〜!」


 飛び跳ねる彼女の両目に涙の跡なし。やっぱり嘘泣きだったコンチクショウ!


「じゃぁ……はい」


 スッと目を閉じ、ピンク色の小さな唇にクッキーを挟みクイっと顔を近づける陽加。


「くっ……」


 こうして見ると彼女の顔面の可愛さに改めて気付かされる。僅かに動く長いまつ毛や整った鼻筋、真っ白な肌にシャープなフェイスライン。これだけの可愛さならおそらく同年代の男子にも相当モテているはずだ。そんな子が今こうして目の前で無防備な姿を晒している。あぁ……もうホント勘弁してくれ。


「じゃぁ行くぞ?」

「(コクッ)」


 俺はそのうなずきを皮切りに、彼女が咥えるクッキーの端をゆっくりかじっていく。サクリサクリと食べ進むたびに細かな破片が落ちていくが、そんなことを気に留めている余裕は俺にはなかった。小さな陽加の顔面がじわりじわりと近くなり息を感じる数センチまでその距離を縮めた。


 ヤバい! これ以上はヤバい! もうクッキーの面積は1センチもない。あと一口もかじれば確実に唇が触れちまう! 俺がクッキーから口を離そうとした瞬間、翡翠色の陽加の瞳が俺を捉えた。


「いいよ? 明日真っち。来て……」

「——っ!」


 俺は飛び跳ねるようにその場から後ずさりした。その衝撃で残っていたクッキーがトレイに落下し砕け散った。


「あぁ! もう少しだったのに〜! なんで離しちゃうのぉ〜!?」

「お前! なんで目ぇ開けてんだよ!」

「えー? だって目を開けちゃいけないなんてルールになかったもーん。それよりさ明日真っち——」

「……?」


 この日、一番の無邪気な顔をしながら目の前に立つこの小悪魔JKは妖艶な声で俺にささやいた。


「ドキドキした……?」


****

****



「それではお邪魔しました。お母様。次の訪問は明後日の予定です」


 陽加との勉強とそれ以外の何か(?)を無事終えた俺は、次の生徒の元へ行くため陽加の家を後にしようとしていた。


「今日もありがとうございました先生。またお紅茶とお菓子ご用意してお待ちしております」

「じゃーねー明日真っち!」

「こら。明日真先生でしょ! この子ったら」

「もう慣れましたよお母様。それより陽加、今日やったところちゃんと復習して覚えておくんだぞ?」

「は〜い」

「気の無い返事だな。それでは僕はこれで——」


 俺が玄関から外に出ようとしたその瞬間、陽加がスッと耳元まで近づき母親に聞こえないような声でボソリと俺に耳打ちした。


「またやろうねあの“ゲーム”」


 俺は『にひひ』と悪戯っ子のように笑う彼女に吐き捨てるように言ってやった。


「二度とやるか!」


 キョトンとする陽加の母親を尻目に俺は、自分のバイクを止めている駐車場まで早足で駆けて行った。


「次は朋子の家か。はぁ……無事に終わればいいが」


 俺はヘルメットを被り、バイクのエンジンを始動させた……。 



 

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