第4話

 荷物が重いせいか、大して遠くないはずの昇降口に着く頃には息が切れていた。


 暑い。苦しい。気持ち悪い。


 自分なりの全力疾走と、七月のじっとりとした暑さのせいで、身体の水分が汗に変わり、そのせいでインナーが張り付いてくる。

嫌悪感があるのは好意に対するもの。好意を抱いてしまった人に罪はない。

頭ではそう思っていても体は嫌悪感に素直で、気持ち悪いのだと気持ちに訴えてくる。

好意に対する嫌悪感になのか、張り付いていたインナーが離れたせいなのか、背中がゾッとした。


 もうすぐ夏休みがくる。それによりみんなが浮き足立っていた。

 きっとあの彼もそう。夏休みという言葉に唆されたのだろう。

 そう、これはきっと、ただの気の迷いだった。

 唯一の救いは、どこもかしこも夏休みの話で持ちきりだということ。

そのおかげで、このことはあまり広まらないだろう。広まったとしてもすぐに夏休みが来てくれる。そうしたらきっと、お互いに変に傷付かずに済むはずだから。



そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど嫌悪感に吸い込まれるような感覚に襲われる。


まだ帰りたくない。


 帰ってしまったら今日のことや、そろそろ決めないといけない進路のことを考えなくてはいけない。たまたま課題もなく、予備校も休みなのに、勉強しないといけなくもなる。

 きっと、もっともっと吸い込まれる。

 帰りたくないし、久々に何もない放課後。せっかくだから寄り道をしよう。

 そう決めた私は一人である場所に向かう。



「お、ゆきちゃんじゃないか。久しぶりだね! 大人っぽくなってて一瞬わかんなかったよ!」

 少し重たい扉を開けて入ると、たまたま近くにいた、ここのカフェの店長さんに迎えられる。

「お久しぶりです」

「今日はお母さんと一緒じゃないんだね?」

「そうなんです。今日は学校帰りで、久々にここに来たいなと思って」

「そうかそうか。とりあえず、お好きなお席へどうぞ。ご注文はお決まり?」

「ありがとうございます。そしたら、コーヒーフロートをお願いします」

 お母さんとよく来たカフェ。

 あまり変わっていない内装。顔馴染みの店長さん。昔から変わらずカウンターにおいてあるゲッツキ。

 席について店内を見渡すと、変わらない安心感と懐かしさに感慨深くなる。

 このお店みたいに、全部大きく変わらないでいて欲しい。他人も、自分も。


 変化なんて、しなくていいのに。


「お待たせー。コーヒーフロートね」

 黒っぽいコーヒーの上にいる、ほんの少し溶けかかっているバニラアイス。店長さんがテーブルに置いた小さな衝撃で、上の部分がほんの少しお互いが混ざり合う。

「ありがとうございます」

「ミルクとシロップはいる?」

「シロップだけ一個お願いします」

「それにしても、あのゆきちゃんがコーヒーを飲むようになるなんてな。小さい頃はお母さんのコーヒーを少し飲んだだけでうえってしてたのに。大人になったなあ」

「そういえばそんな頃もありましたねー」

 思い出に浸ってしみじみするのと同時に、そんなところまで見られて覚えられていることが少し恥ずかしい。

 このお店は家の近所だし、小さい頃から来ているから、もしかしたら私が気づいていないだけで他にも見られていたりするのかも。

「まあ、フロートだからまだまだ子供だけどね。それじゃあごゆっくり」

 懐かしさを満喫した店長さんはキッチンへと入っていく。

 その後ろ姿を見届け、意識をフロートに向けた。

 アイスと縁の間からひっそりと覗く黒い部分にガムシロップを一つ。

 混ぜる前にアイスをスプーンで少し大きめにすくい一口。変わらない味と美味しさに思わずもう一口。

 さらにもう一口といきたいところだけどやめて、スプーンでアイスを押して全体を沈めた。そして少しかき混ぜてあげると、アイスはコーヒーに溶け合い始める。

 黒くて苦いコーヒーは、甘く白いアイスによって白に近づいていく。

 アイスはコーヒーによって溶かされて、白さと自分の形を保たせてもらえない。

 コーヒーフロートを混ぜるとお互いの境界線は曖昧になって、アイスでも、コーヒーでもなくなる。コーヒーとも、コーヒーでないともいえない不完全になる。



 そういうところが私たちに似ていると思う。



 大人にも子供にもなりきれない。高校生になったというだけで突然ぐちゃぐちゃに混ぜられて、他人の都合に合わせて大人だ、子供だと言い換えられてしまう。

 大人になるとか、大人になったとか、何が基準なのかわからない。

 高校生になったら大人の仲間入りだっていう時もあれば子供だって言ったりする。悪いことをしたら「もう大人でしょ」と怒られたりするのに、法律上では二十歳になったら成人だって言って、二十歳未満には親の同意が必要だったりと子供にされる。逆に二十歳になったら大人だねと突然放り出されることもあるのだ。

 私も小さい頃は、高校生はもう大人だと思っていたけれどそれはただの憧れで、結局大人たちの都合。

 自分で好きなところに行けて、好きなことができて、自分でお金を稼いで使えて。そう自分のために自由にできることが大人だと思っていた。

 でも本当は自由に行動できる裏には責任が伴っていたりする。だからこその特権があったりするし、子供の頃とは違う見方や考え方に変わっていったりする。だんだん自分を認めてもらえるように数字が気になるようになるけど、そのせいで我慢して、自分の身や心を削らなくちゃいけなくなったりもする。

 私は我慢して、自分の身も心もすり減らすことが大人なら、大人になんてなりたくない。好意みたいに子供の頃と変わってしまうものがあるなら知りたくない。受け入れたくない。



 だけどきっと私は少しずつ大人に近づいている。

 もうすぐ決めなきゃいけない進路。

 知名度、偏差値、就職に有利かどうか、そういうことばかり気にして、自分が将来何をしたいかだとか、興味があるのは何かというのを二の次で考えている。

 無意識のうちに私は数字を気にし始めているのだ。

 それにコーヒーフロート。

 本当はコーヒーフロートじゃなくて、コーヒーでも飲めるようになりつつある。でもまだ認めたくなくてフロートにしていたり。

 きっと他にもたくさん。



 だから私は大人になりたくない。


 でも大人にならざるを得ない。なりたくなくても周りには大人が多すぎるし、大人にならないと生きていけない。

 きっと拒んでいても周りに大人が多すぎて、無意識のうちに染められて大人になってしまう。



 いつまでも子供ではいられない。



 それならせめて今のうちに子供を満喫して、大人になっても子供に戻れる何かを。


 苦いコーヒーばかり飲むようになる前に、甘いアイスクリームが好きなうちに。


 混ざり合ったコーヒーフロートを一気に半分くらいまでストローで吸い込んで、呼び鈴を鳴らす。

 音をきて駆け寄ってきた店長さんに一言。

「バニラアイスを一つお願いします!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイスコーヒー 夏谷奈沙 @nazuna0343

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る