第2話


「よし、今日はもうこのくらいにして帰ろうか」

「え、もう? お姉ちゃん今日バイトだったの?」

 あと少しで終わりそうな宿題を前に、咄嗟に出てしまう。

「今日はバイトはお休み。だけど図書館が早く終わっちゃう日だから」

「あ、そっか」

 あたりを見回すと閉館間際ということで人が少ない。立ち上がるために椅子を引くと、ガタガタと音が館内に響き渡り、反響しているようにも感じる。



 中学生になってから、お姉ちゃんに勉強を教えてもらっていた。

 お姉ちゃんは近所に住んでいる幼馴染で、高校生。とても大人びた雰囲気で、たくさん面倒を見てもらっている。

「あ、またコーヒー買ってる。美味しいの?」

 自販機から元気よく落ちてきた黒い液体の入ったボトルを取り出しながら、いつの間にやら反対の手にいた透明なサイダーを私に差し出す。

「うーん、美味しい、のか、な? 眠気覚ましに飲んでるくらいだからなあ」

 そう悩みながら言いつつも、慣れた手つきで蓋を外しゆっくりと口の中に流し込んでいく。

「眠いの?」

「バイトしてると夜遅くなって眠くなっちゃうからね。……って今日は休みだったわ」

 お姉ちゃんはうっかりしていたと自分に笑いながらまた流し込む。

 あ、今日は微糖だ。

 いつも飲むのは同じコーヒーでもブラックだったり、微糖だったりと日によって違う。気分によって変えているのか、それともそこまで興味はなくて適当なのか。よくわからないけれど、私は勝手に前者だと思っている。

 けれども美味しいのか悩みながら飲んでいたって、微糖だろうとブラックだろうと苦そうな顔も、苦すぎて不意に出てしまう声も出ないから大人なんだなと思う。

 私は最近、やっとカフェオレが飲めるようになってきた。全然子供で、コーヒーにはまだまだたどり着けないなと飲むたびに思い知らされている。

「お姉ちゃんは働きすぎなんだよ」

 いつもよりも主張しているように感じる赤いリップ。しかしキラキラしている目元からはうっすらと黒い影が出てきていた。

 クマがある。

 自分の目元に指を指し、そいつを指摘するようなジェスチャーをする。

「来年には受験生だからね。今だけだよ」

 お姉ちゃんはクマを隠蔽するように指をあてて、にへりと笑う。側から見ると、笑いながら泣き真似をしている人のようにも見えた。


 お姉ちゃんは大学進学とともに一人暮らしをするのが今の目標で、駅前のファミリーレストランでそれなりに無理なく働いていた。

 しかし最近では、来年からは受験生になって働けなくなるからと、法に触れない程度に遅くまで働いている。

 それから帰ったあと、さらに遅くまで起き続け勉強をしているようで、部屋の灯りが私の部屋から見えると、いつ寝ているのか、寝れているのかなどと心配になる。


 それでも貯金をしながらも、自分で稼いだお金を自分で管理して使っているところをみるとすごく羨ましい。

 お金はちゃんと持っているけれど、使えるのはほんのささやか。

 中学生だから働けないし、お小遣いをもらうけれどあまり使っていない。たまに貯めていたお小遣いを切り崩してちょっと金額が大きいものに使おうとすると「それは今じゃなくてもいいんじゃない?」とか「もうちょっと考えたほうがいい」などと言われ、あまり自由には使えない。

 自分のお金とはいえ、お小遣いでもらっているものだしと、使うことに罪悪感やためらいを感じるようになっている。

 自分がまだ中学生で、バイトもできない子供だからしょうがないと思いながらも、いつしか「大人は自分でお金を稼いで使えていいな」と考えるようになった。


「私、早くお姉ちゃんみたいな大人になりたい」

 一瞬、目を丸くしながらもすぐにお姉ちゃんは少し笑った。

「私みたいな大人になったら、ろくでもないやつになっちゃうよ」

 そんなことない。

 学校にちゃんと行って、たくさん働いて、夜遅くまで勉強している人のどこがろくでもないのか。

 反論しようと口を開けたが、空気にもする前に遮られる。

「それに、私だってまだまだ子供だよ。ヒヨコなんだよ。もしかしたら羽化すらしてないかも」

 手をヒヨコの羽のようにして動かしながら、おちゃらける姿が少し面白い。

「そうなの? お姉ちゃんのどこが子供なの?」

「まだ高校生っていうところとか。バイトしてたって結局親に養ってもらわないと生きていけないし、学校にだっていけないよ」

「そっか、たしかに……。でも私、早く大人になりたい。好きなことしたい!」

「ゆきは早く大人になりたいんだね。でも私は、大人になるの怖いなあ」

 大人は汚いし、と薄ら笑いを浮かべる。

 どうしてと聞く代わりに首を傾けた。すると突然、お姉ちゃんは今まで隣同士で歩いていた足を止める。向き合うとちょうど後ろにいた夕日に邪魔をされて表情が見えにくかった。

「え? なんて?」

 お姉ちゃんの唇が動く。けれど声が小さすぎて上手く聞き取れない。

「なんでもないよ。ほら、ゆきの家着いた」

 踏み込むなというように私の頭を優しく撫でてくれる。

 その表情は少し悲しそうで、でも何に悲しんでいるのかはわからない。今の会話の中に、悲しむ要素があっただろうか。

「またね」

 考えていると、お姉ちゃんはスッと離れて帰っていく。

「う、うん。またね」

 お姉ちゃんは後ろを向いたまま、小さく手を振ってくれる。

 しかしお姉ちゃんは家ではなく、図書館のあった方向へと歩いていく。

 その背中を眺めているとらお姉ちゃんの首のあたりに、蚊に刺されのような痕ができていることに気がついた。

 わざわざ追いかけていうほどでもないかと気づいただけにして、お姉ちゃんを見るのをやめ、家の門へと手をかけた。


 小さくて聞き取りづらかったけれど、本当は確かに聞こえていた。

「自分を大切にして」

 なんでそう言われたのかはわからない。私は自分を大切にしていると思う。

 今日のお姉ちゃんはどうしたんだろう。


 少し不思議を残したお姉ちゃんの言葉が、妙に引っかかって解けなかった。

 

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