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 ホームに立つと、冷たい風が体を震わせた。僕は思わずコートのポケットに手を突っ込み、マフラーに顎を埋めた。吐く息は白く、太陽の光でキラキラと光っている。以前来た時よりも、体感的にはずっと寒かった。そして、この乾いた空気はあの時の記憶を呼び起こす。この地に再び来たのだと、僕は改めてその肌で感じた。

 しばらくすると、特急列車が再び動き始めた。車掌が何かを告げると、列車はそのまま僕の横を走り抜け、瞬く間に視界から消えていった。

 駅のホームは八つほどで、列車の本数もそこまで多くはなかった。案内ボードを見ても、次の列車はまだ当分来なそうだった。この町の利点を上げるなら、北に三十分ほどでリーズという街に行けることだろう。今通り過ぎていった列車もちょうどそこが終点だったはずだ。かの有名なリーズ大学がある栄えた街で、僕も一度行ったことがある。そんな立地だったこともあり、この駅を利用する人は想像よりも多い印象があった。無論、日本のラッシュアワーを経験している僕にとって、それは決して混雑したものではなかったが。

 僕は一歩一歩噛みしめるように、ゆっくりと歩き始めた。ホームから階段を降り、改札へと向かう。すれ違う子どもが不思議そうな眼差しで僕を見つめていた。宇宙人でも見たかのような、驚きと戸惑いの目だった。無理もないことだろう。僕はそう思い、その子どもに笑顔を向けた。そしてそのまま改札を抜け、外へと出た。目の前に映る景色を前に、自然と頬が緩んだ。

 左手には駅に直結した建物が見える。何も変わっていなかった。おそらくそこにはカフェやファストフード店、そしてファッションストアが今もあるのだろう。ベビーカーを押す母親や老父婦の歩く姿が建物のガラス越しにちらっと見えた。そして、右手にはアーケード街が続いてた。こちらもまた変わっていないようだった。お店の一つくらい潰れてしまったのかもしれないが、その雰囲気は前に来た時と同じだった。

 僕はアーケード街に沿って歩き始めた。タクシーの停留所では運転手たちが食べ物を片手に仲良く喋っている。そして僕の存在に気がつくと、こぞってこちらを見始めた。僕が現地の人間ではないことを察したような眼差しだった。良い商売のカモだとでも思ったのだろう。ここでスマートフォンでも出したなら、即座に近寄ってくるに違いない。行き先を探す迷える子羊を、彼らは決して逃さない。僕はそのことを知っていた。そんな彼らとは目線を合わさず、まっすぐに歩いた。行き先はすでに決まっていたからだ。

 アーケード街には様々なお店が軒を連ねていた。カフェや薬局、そしてゲームショップ。よく分からないお店もちらほら見受けられる。個人経営のお店なのだろう。もちろんパブも何軒かあり、良い匂いが周辺に漂っていた。ただ、一様に活気があるとは言い難く、そこまで繁盛している印象はなかった。人影もまばらで、少し物寂しい。

 交差点を渡り、道路沿いを真っ直ぐに歩き続ける。目的地まではもうすぐだった。もう二、三区画先を行ったところに、それは見えてくるはずだ。僕は一枚の地図を確認した。

 目の前から母娘が近づいてきた。母親は四十代くらいに見える。背丈もあり、肩までかかったブラウンヘアーが綺麗だった。女の子は小学生くらいだろう。彼女もまたその年にしては背丈があったが、癖毛のあるジンジャーヘアーをしていた。二人とも寒いのか上着をしっかりと着込んでおり、同じようなマフラーと手袋をしている。微笑ましいペアルックだな、と思った。楽しそうに喋っているところから、相当仲が良いのだろう。

 母親はサングラスをしていたのでその表情はよく分からなかったが、女の子ははっきりと僕の姿を捉えていた。話すのを止め、顔の向きをこちらに固定し、不思議そうな表情を浮かべている。それは、駅構内ですれ違った子どもの眼差しと同じだった。

 大人たちはそれほど興味を示さないが、無垢な子どもたちは僕の姿を見て同じような反応をする。驚きと戸惑いの目。彼らにとって、僕のようなアジア人の姿は珍しいのだ。

 多様性の国として知られているイギリス。特にロンドンにおいてアジア人の姿を見ることは珍しくなかった。実際にロンドンは日本人が多く住んでいる海外の都市の一つだと、どこかのテレビ番組で見たこともあった。利便性と住みやすさを考えて都市部に様々な外国人が集まる一方で、都市部から離れれば離れるほどその姿が少なくなるのは、日本でもここイギリスでも同じことだった。

 町を歩いていても彼らにとっての外国人、つまり僕のようなアジア人を見ることは少なかった。だからこそ、子どもたちは僕に対して夢中なのだろう。物珍しい存在が、彼らの目の前から突然やってくるのだ。

 僕はいつものようにその女の子に対して笑顔を振りまいた。怪しいものではないという自分なりの意図を込めたものだった。女の子はそれを見て引きつった顔をしていたが、母親の方は笑顔を返してきた。サングラス越しでも、その緩んだ表情が分かった。母親の立場を考えての愛想笑いだとは思うが、僕はそれが嬉しかった。

 これは僕の持論だが、この町の人々はとても優しいように思われた。それは単に、彼らにとって僕が外国人だったのも理由にあるのかもしれない。僕の地元にも外国人が来たら、おそらく同じような対応をするだろう。それでも、僕はそう思わずにはいられなかった。

 訳あって、この町を彷徨った経験があった。その時はカバンを背負い、重たいスーツケースが手元にあった。当時もおそらくこの場所を歩いただろう。周りの景色に身に覚えがあった。そのスーツケースのキャスターが壊れ、二、三時間ほど担ぐ羽目になった時はどうなるものかと思ったが、それも今となっては良い思い出でもある。そんな状態の時に助けてくれたのが、この町の人だった。わざわざ車を止めて「迷ったの?送っていこうか?」と数人から声をかけてもらったり、目的の住所をわざわざ立ち止まって調べてくれる人もいた。僕の身を案じてか、良心的な人がとても多かった印象がある。

 その女性は当時、ドンカスターの人々を『芋っ鼻』、つまり『田舎者』だとと揶揄して笑っていた。もちろん、彼女自身をも皮肉った表現だ。僕はそれを追従笑いで返していたが、本当にそれは合っているのだろうか、と今は思う。

 田舎ということに関して否定はしない。しかし、田舎だからこその良さがあるのもまた事実で、そこに住む人々たちの人柄に触れた今、彼らを単に『田舎者』だと一括りにするのはどこか間違っているような気もするのだ。

 そんな当時のことを懐古しながら歩いていると、白い建物が視界に入った。西洋建築独特のゴシック様式が目を引くその造りが、この青い空に映えていた。高層の建物も周りにはほとんどなかったので、その建物がより鮮明に見えた。僕が目指していた場所が、そこにあった。

 十二月のイギリスは寒かった。吐く息が白く、そしていつもより濃いように思われた。鼻の頭はピエロみたいに赤くなっているだろう。僕は一度鼻を啜ると、より深くマフラーに顔を埋めた。ここまで寒いとは思ってもいなかった。正直なところ、少し後悔をしている。

 もちろん、ある程度の寒さを想定して着込んできたつもりだった。保温性を保つことで有名な肌着に厚手のニット、そしてコートをその上に羽織り、首元にはマフラーを巻いている。これで十分だと思っていた。これ以上は無駄な荷物になるという理由もあったからだが、その認識も今では甘かったと言える。

 お店にでも寄って手袋一つでも買おうかと思った。戻ったところの角に、有名なファッションストアがあったからだ。あいにく持ち金は少なかったが、それくらいは買えるだろう。

 それでも、僕は歩みを止めなかった。まっすぐその場所へ、僕は進んだ。ここに来た理由。それは、ある女性に会いに行く為だった。


 あの教会に、彼女はいるはずだ。

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