ロンドンの雨が止む前に
ぐーちょきぱん
ロンドンの雨が止む前に
1
ドンカスターと呼ばれる小さな町の教会に、その女性はいた。
ロンドンにあるキングスクロス駅から特急列車に乗り、まもなく一時間が経とうとしていた。僕は腕時計の時刻を確認し、座席の背もたれに寄りかかった。
リクライニングの効かない硬い座席だった。おかげで全く落ち着かない。日本の新幹線に乗り慣れている人であれば、なぜここまで配慮が足りていないのかと愚痴が漏れるだろう。海外に行くたびに日本のその行き届いた配慮の精神に気づくのは、決して珍しいことではない。
ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。何度試しても、Wifiが繋がらなかった。今回もまた同じだ。確認することも別になかったので気にはならなかったが、前の座席に貼られた広告を見て、僕は思わず顔をしかめた。
『車内では自由にWifiが使えます!』英語表記で、そう書かれてあった。
この列車に乗るのは今日で三度目になる。しかし、Wifiが使えた試しなど一度もなかった。僕は小さく溜息をつくと、スマートフォンをポケットにしまった。そして、小さく微笑んだ。
この感覚は久しぶりだった。硬い座席。そして、繋がらないWifiの車内。あの時と全く変わっていなかった。どこか懐かしささえ感じてしまうほどだ。
これといってやることもないので、そのまま窓の景色へと目をやった。地平線の先にまで牧場が続いていた。馬や牛、そして羊の群れが視界に入った。僕は窓の淵に頬杖をついた。
のぞかな風景だな、と思った。そう表現する以外、どんな言葉が思い浮かぶだろう。僕は頬杖をついたまま、頬をぽりぽりと掻いた。強いて言えば、『カントリーソングを思わず口ずさみたくなる景色』だろうか。この車両には人はまばらだったので、別に歌っても誰も気にはしないだろう。そう思い、ふふっと乾いた笑いが出た。
のどかな風景が続くということは、目的地が近づいていることを意味していた。日本から直行便で約十二時間。そして、ロンドンからこの列車を使いさらに約一時間。諸々の移動時間を含めれば、約一日はかかっただろう。そこまでして目指した場所が今、目の前に近づきつつあった。
ドンカスターと呼ばれる、小さな町だ。
州で言えば、そこはイギリスのサウス・ヨークシャー州に位置していた。と言っても、ピンとはこないだろう。その女性の言葉を借りるなら、『ロンドンから北東方面にちょっと行った場所』という認識で良いと思う。実際に、僕も地理的にそう把握していた。
ただヨークシャーと聞くと、犬好きであればヨークシャテリアを思い出すかもしれない。小型犬の中でも人気のある犬種で、日本でも飼っている人を多く見かけたことがある。「動く宝石」と言われるほどの上品な毛並みと、活発で人懐っこい性格が魅力的なのだが、その起源を調べるとネズミを捕まえるための猟犬というから驚きだ。華奢な犬種だと思っていたが、人間同様に犬たちもまた見た目で判断してはいけないのかもしれない。
僕もその女性から出身地を聞いた時、真っ先にヨークシャテリアが頭に浮かんだ。それを聞いた彼女は当時くすくすと笑っていたが、僕からすればドンカスターという町を知るきっかけにはそれが最適な例えだった。
『ロンドンから北東方面にちょっと行った場所』そして『ヨークシャテリア』これだけでも、その町に対して幾分親近感が湧いてくる。
到着を知らせるアナウンスが車内に響いた。周りを見ても、ここで降りる人はこの車両にはいなそうだ。僕は隣に置いたコートを羽織りマフラーを首に巻くと、鞄を背中に背負った。荷物はそれだけだった。スーツケースは持ってきていない。移動に不便なので、事前に空港に置いてきたのだ。
彼女との再会にはこれ以上ない最高の日なのかもしれない。その地に足をつけ、僕はそう思った。気分屋なイギリスの天候にしては、雲が一つとしてなかったからだ。見上げれば、青い空が果てしなく続いていた。
久しぶりね。青い空が、僕にそう語りかけている。
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