第9話
それからというもの、僕は度々山崎君を誘ってストリートライブを行いました。ライブの最後に必ず「ロストハート」を歌っているうちにこのバラードは評判になっていきました。この曲だけが目的でやってくる人も多数現れたほどでした。
その日はビルの上にきれいな半月がくっきりと浮かび上がった風の穏やかな気持ちのよい夜でした。
「ロストハート」を歌い終えた僕らは片付けて帰ろうとしていました。集まっていた人も一人二人と去っていきました。
だがその中に一人、いつまでも帰ろうとしない人がいました。
20代前半の女性でした。白いスーツとヒールを履いていて、手には黒いビジネス用のバッグを持っています。ストレートの黒い髪は、肩まで伸びていました。背は165cm位で、細身で肌の白いきれいな女性でした。少しつりあがった目は、若干気の強そうな印象をこちらに与えました。
「どうしたんだろうね?あの人」僕は山崎に言いました。
「…そう言えば」
思い出したように山崎君が言いました。
「どうかした?」
「ここんとこ、あの人よくライブに来てるぜ」
「え…そうなの?」
ギターを弾く事にだけ集中していた僕は全く気づきませんでした。
「ああ。美人だから目に付きやすかったんだ」
山崎君がにやりと笑いました。
「確かにきれいだよね」
「俺達のファンじゃねえか?最近ネットでも俺達の事話題になっているみたいだぜ。素敵なバラードを歌う二人組ってさ」
「へえ…」
そんなに評判になっているとは知りませんでした。
「この後、お茶でも飲みに行きませんか?って誘ってくるかもしれないぞ」
「はは。まさか」
僕は笑って否定しました。
だがその女性はツカツカとヒールを踏み鳴らして近づいてくるとこう言ったのです。
「お疲れ様。この後お茶でも飲みにいきませんか?」
僕と山崎君は顔を見合わせました。
それから10分後。
女性に先導されて僕達は広場を出て歩道橋を降り、近くにあった落ち着いた雰囲気の喫茶店へ入りました。
僕も山崎君もこの店に入るのは初めてでした。
狭い店内の壁際の席に腰を下ろし、3人ともコーヒーを頼んだ後、女性が言いました。
「あなた達のライブを見せてもらいました」
凛とした美しい声でした。
「は…はい。ど…どうも」
「最後に歌ったバラードがとても素晴らしかったと思います」
「あ…、ありがとうございます」
このようなきれいな女性から褒められるのは悪い気がするものではありません。
「それでお話なのですが…」
女性は先ほどよりもやや真剣な目つきになりました。
「うちの会社からCDデビューしませんか?」
「えっ」
いきなりなそんな事を言われて、僕も山崎君も驚いてしまいました。
「デビュー…ってデビューですよね?」
女性はにっこり笑って言った。
「そうです。デビューです」
女性は冷静に言いました。僕らはすっかり面食らってしまいました。
「あなたは一体…?」
「あ…御免なさい。自己紹介が遅れてしまったわね」
女性はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出して僕らの前に一枚名刺を置きました。
そこには有名な大手のレコード会社の名前が入っていました。
「真山といいます。会社の名前くらいは聞いた事があるかしら?私、新人アーティストを発掘する仕事を担当しているの。そこで最近話題になっているあなた達の事を調べに来たっていうわけなのよ」
「お…おい、光太郎、どうするよ…この話?」
山崎君は困惑しているようでした。
僕はこの話ももちろん驚いていたのですが、それ以上に彼女の名刺の名前に驚いていました。
「真山ひとみ」
それが彼女の名前でした。
ドクンドクンドクン。
僕は自分の胸の鼓動が、急速に高まっていくのが分かりました。
「やってくれるかな?他にもまた素敵な曲を聴かせてほしいな」
ひとみさんはにこっと笑いました。
その笑顔を見て僕の答えはもう決まっていました。
今度の「ひとみさん」のために作る曲は、果たして恋がかなう幸せなラブソングか、それとも失恋ソングか…どちらでしょうか?
ひとみsongs 空木トウマ @TOMA_U
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