第9話

「こっちこそ、廻迷さんが来てくれたおかげでまた命を助けられました。ありがとうございます」


「いいや。二人が力を合わせた結果さ。だからこうして美鶴ちゃんを助けられた。やっぱり、君を選んで良かったよ、ナミトくん」



 細められた目が優しくて、心臓がどきりと鳴った。

 この人は、叱ることも上手であり、褒めることも上手だ。普段飄々としていて掴めないが、こういうときの廻迷さんはとても真っ直ぐで、人間としての強さを見せてくれる。

 そんな廻迷さんだからこそ篝は、彼女についていこうと思えるのだろう。



「でも、先輩が囮になろうとしたこと、私今もちょっと怒ってるんですからね」


「う・・・・・・本当に悪かったって。でも、あれがチャンスだと思ったんだよ」


「全くもう、先輩ったら・・・・・・」



 ほんの一瞬俺をジト目で睨んだあと、諦めたように溜息を吐いた。

 流石にまた死にかけるとなるとシャレにならない。逃げてる時の俺は心の底から必死だった。

 三度目なんて絶対に迎えたくないのだから。


 そのときふと、廻迷さんはズボンのポケットから札を取り出して美鶴の胸の辺りに置いた。

 俺には全くもって読めないが赤い文字で何かが書いてある。普通の文字では無さそうだ。

 そして、札に手を当てたまま彼女は呟く。



「この者に癒しを。この者に恵みを。

廻迷巡かいめいめぐりの名において救いを赦す。

我は汝の穢れを解き放つ者。

​────光は此処に」



 美鶴の胸が淡い光に包まれる。

 その眩しさに一瞬目を背け、再び視線を戻すとそこにはさっきまであった札が消えていた。


 成程、こういう様子を見ると確かに彼女は陰陽師だ。

 黒スーツでなんか刀持っているけれど。



「何か儀式ですか? それ」


「ああ、魂の浄化だ。美鶴ちゃんの魂があの猫によって少しだけ穢れてしまっていたからね」


「魂が穢されると、どうなるんですか・・・・・・?」


「霊怪を寄せやすくなる。もっと穢れると、魂が此岸と彼岸の間である霊怪の世界に行ったまま、戻れなくなる。だからこうして浄化してあげるんだ。言わば、霊怪が人間の魂につけていった足跡を消す作業みたいなもんかな。美鶴ちゃんは霊怪と良くない関わり方をしたからね。完全に被害者だ」


「完全に被害者、ねぇ・・・・・・」



 まあ、霊怪と良い関わり方なんて無いけどね。

 と、廻迷さんは俺が考えていたことを読んだように先にそう言った。


 自分の場合は自ら霊怪に突っ込んでいったもんなあ、と心の中だけで呟く。

 

 その時ふと、美鶴が唸った声を上げて、身動ぎをした。今まで眠っていた美鶴が今、初めて反応を見せたのだ。

 反射的に美鶴の名前を呼ぶと、彼女は顔を顰めながら、ゆっくりと瞼を開けた。



「美鶴ちゃん! 大丈夫ですか?」


「ん・・・・・・わたし、何で・・・・・・ここ、どこ・・・・・・?」


「無理して起きないで良いからね。まだおねーさんの膝使って大丈夫だよ」


「うん・・・・・・」



 美鶴はこくりと小さく頷いた。

 だいぶ顔色は良くなってきたようで安心した。



「お姉さん、だあれ・・・・・・?」


「私は廻迷巡かいめいめぐり。この二人の​────先生だよ」


「えっ」



 お姉さん的ポジションが良いとか言いながら自分で先生を名乗り出したな、この人!


 全力でツッコミを入れそうになるのを堪えながら、篝の反応をちらりと見た。やはり彼女も苦笑を浮かべていた。



「カカオ・・・・・・」



 と、ずっとそばにいた猫を思い出したのか、美鶴は名前を呟いた。

 瞳を潤ませ、今にも大泣きしそうな表情だ。


 だが彼女はそれをくっと堪えている。本当は悲しくて悲しくて仕方がないはずなのに、美鶴はただ胸の前で手を握っている。

 まるで祈るように。



「・・・・・・大丈夫だよ、美鶴ちゃん。カカオはずっと、君のそばにいる」



 優しい嘘だった。

 最初から霊怪として美鶴に寄り付き、食べようとしていたという猫。その猫が、廻迷さんに斬られ、黒い塵となって消えていくさまをこの目で見た。


 けれど。

 美鶴は「カカオ」として、あの猫のことを確かに愛していた。

 彼女が向けた愛情だけは、決して否定してはならないのだ。



「お姉さん、分かるの・・・・・・?」


「ああ。分かるとも。私は先生だからね」



 廻迷さんはウインクをすると、美鶴はほっとしたように笑った。

 服の裾でゴシゴシと目を擦ったあと、ゆっくりと立ち上がり、廻迷さんの腕の中から離れていく。


 そして、美鶴は天を向いて、祈りを捧げた。

 その姿はまだ幼い子供だというのに、聖女のようにも見えた。



「カカオ。私と一緒に遊んでくれて、ありがとう」



 西陽が、美鶴を照らす。涙の滲む横顔はまだあどけないが美しい。

 強い風が吹くと、美鶴の二本の三つ編みが大きく揺れる。


 もう一度、彼女は自分の目を擦ると、俺たちにくるりと向き合った。



「お姉ちゃん、お兄ちゃん。それからお姉さん・・・・・・ううん、先生っ。助けてくれて、ありがとう!」



 美鶴は元気よく笑った。

 小学生らしい、とても明るい笑顔だった。



「はは。これはこれは、可愛い生徒が一人増えたね」


「どういたしまして。美鶴ちゃんが無事で本当に良かったです」


「嗚呼、そうだな」



 手を伸ばし、美鶴の頭を撫でると、美鶴はふにゃりと顔を緩ませた。

 泣いたせいか、目と鼻が赤くなっていた。


 そんな美鶴に視線を合わせるように廻迷さんはしゃがみこみ、穏やかな口調で言った。



「美鶴ちゃん。今回、怖い化け物に出会ったことは、絶対に誰にも言ってはいけない。これだけは約束、してくれるかな?」


「うん。分かった」



 美鶴が頷くと、互いの小指同士が絡まり合う。



「もうきっと、君は化け物に会うことは無いだろうけれど、もしも見えてしまったら、自分から近付いては絶対に駄目だ。見て見ぬふりをして、その場から逃げてね。絶対に」


「うん。先生との約束、守る」


「良い子だね。約束を守るのは、とても大事だ」



 美鶴の頭を、廻迷さんは優しく撫でる。

 そして少しだけ抱き締めると、俺たちに向き合って言った。



「じゃあ、最後に二人にもう一つ任務を頼む。この子を家まで送り届けて欲しい」


「分かりました」


「お任せを。​────先生?」



 篝はニヤッと、悪戯をする子供のように笑った。それはまるで、冗談を言うときの廻迷さんの表情によく似ていた。

 嗚呼、篝もこんな顔もするんだな。

 と。俺は思った。

 まだまだ、二人のことをよく知らないが、これからもっと知っていくことになるのだろう。

 良いところも、悪いところも。


 それは少しだけ​────いや。正直に言うと、結構楽しみだ。


 廻迷さんは篝を見て一瞬、面食らったような顔をしたけれど、すぐにくすくすと笑っていた。



「じゃあね、先生! また会いたい!」



 美鶴はぶんぶんと大きく手を振る。



「はは、会えないほうが良いんだけどね。・・・・・・うん、またね! 美鶴ちゃん!」



 廻迷さんもまた大きく手を振り返した。

 やがてその手が元の位置に戻ったあと、その両手を、俺と篝が握る。

 子供の手は、自分が思っていたよりもずっと、小さかった。


 美鶴も俺の手をきゅっと握り返し、落ち着いたトーンで口を開いた。



「・・・・・・本当はね。カカオがいなくなって凄く悲しい。カカオと私はずっと、仲良しだったから。餌も毎日あげに行ってたし、私が呼ぶとカカオはすぐに来てくれたの」



 俯いてたまま、ぽつぽつと話す美鶴。

 握る手に、そっと力が入っていく。



「お化けも凄く怖かった。このまま死んじゃうかもって、考えちゃって・・・・・・でも、あの場から動けなかったときに、お兄ちゃんたちが来てくれた。だからわたし、思ったの。ヒーローが助けに来てくれたんだって」


「俺たちが、ヒーロー・・・・・・?」



 胸の奥がむずむずとする。

 美鶴は頭を上げて、俺たちの顔を交互に見て、それから笑った。



「わたし、カカオがいなくなっても、お兄ちゃんたちがいるから、寂しくないよ」



 涙の浮かぶ笑顔を見て、俺は籠目美鶴の強さを知った。

 まだ子供だというのに、芯の通った強さがあった。



「美鶴ちゃんは偉いですね。私たちは、そんな美鶴ちゃんのお友達ですよ」


「友達・・・・・・? 本当!? わたし、高校生の友達が出来ちゃったの!?」


「ええ。これからもずっと、お友達です」



 篝もにこやかに笑い返すと、美鶴の笑みは一層濃くなっていく。

 そんな穏やかで、あまりにも愛おしい光景に、自分の口元も自然に緩んでいく。


 橙色の夕焼けに、藍色の闇が滲む。

 地面に並ぶ、三つの影。


 今はただ、こんなあたたかな気持ちに、身を委ねていたいと思った。

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