第7話

 篝が、鬼に願った?


 思わず、足を止めて振り向いた。



「それって、どういう・・・・・・」


「先輩。踏んでしまいますよ、それ」



 篝が俺の足元を指を指す。

 反射的に見ると、足元に蛞蝓のような生き物がモゾモゾと蠢いていた。色は本物の蛞蝓と違い、暗い紺色をしていて、触手は異様に長い。

 見た目の強烈なインパクトと圧倒的な気持ち悪さに背中がぞくりとして、俺はキュウリを背後に置いた猫のように勢いよく後ろに飛び上がった。



「どおわっ!?」


「低級霊怪ですね。敵意も無いみたいなので、放っておきましょう」



 蛞蝓をスルーして俺たちは不気味な廊下を進んでいく。

 完全にタイミングを逃してしまい、彼女から続きは聞けなかった。


 鬼に願った?

 神ではなく、鬼に?


 俺は臨死体験をしたことで霊怪が見えるようになっていたが、篝は自分からそうなることを望んだというのだろうか?


 どういうことかと一人悶々と考えながら、二階へと続く階段を上る​。

 だが、そんな考え事は瞬く間に脳から消されることになった。

 踊り場へと足を踏み出した瞬間、子供のすすり泣くような声が耳に届いた。



「かがり!」


「二階からです! 行きましょう!」



 急いで階段を駆け登り、声の元を探し出す。



「何でっ、こんなところに子供が来るんだよ!」


「分かりません! けど、奥からです! 急ぎましょう!」


「分かってる! クソ、嫌な予感がする・・・・・・!」



 今にも底が抜けそうな廊下を全力で走る。二人分の体重で、ギシギシとさっきよりも大きな音が鳴り響く。


 元陸上部の力を発揮させなくては。

 篝は鬼の影響で身体能力が上がっているため、俺よりもかなり前を走っている。


 情けなさに泣きたくなるがそれも瞬時に消し去り、ようやく一番奥の部屋に着いた。木製の扉の横には、消えかかった文字で「音楽室」と書いてあった。

 篝は勢いよく扉を開けた。


 そこには部屋の隅で泣いている、一人の女の子がいた。



「大丈夫ですか!?」


「怪我、は・・・・・・無さそうだな。一体何が・・・・・・」



 蹲って泣いている女の子に駆け寄ると、彼女はばっと顔を上げて俺たちを見た。

 ずっと泣いていたのか、目と鼻は真っ赤になっている。



「お姉ちゃんたち、誰・・・・・・?」


「私は火縫篝ひぬいかがりと言います。貴方を助けに来ました。もう大丈夫ですよ」


「嗚呼、俺たちに任せとけ」



 二人で笑いかけると、女の子はしゃくりあげながらも安心したような表情を見せた。

 二本の三つ編みが印象的な、まだ幼い少女だ。見た目で判断するに、きっとまだ小学生で、恐らく中学年くらいだろう。


 怖がらせないようにしゃがんで目線を合わせ、少女に問うた。



「君、名前は何て言うんだ?」


「みつる・・・・・・籠目美鶴かごめみつる


「そっか、美鶴。ここで、何があったか教えて貰えるか?」



 美鶴と名乗った少女は目を伏せる。スカートを掴む手が震えていて、ひどく怯えているようだ。

 その様子を見ていた篝は、美鶴の小さな手を包み込むように握った。



「安心してください。私たちが美鶴ちゃんをしっかりと守りますからね」


「・・・・・・っ、お姉、ちゃん・・・・・・」



 目にじわりと涙を浮かばせながら、美鶴は恐る恐る口を開いた。



「あのね。仲良くしてた猫・・・・・・カカオが、ここに逃げたの。だから追いかけないとって思って、入ってきたけど、そこで・・・・・・」



 美鶴の肩ががたがたと震える。顔は血の気が引いて真っ青になっていく。


 この瞬間、部屋の空気が一気に変わった気がした。

 嫌な予感というのは、こういうときに限って的中するのだ。



「美鶴、言いたくなかったら大丈​────」


「お化けに、カカオが、食べられたの」



 その声音は、ゾッとするほどに冷たかった。


 彼女の様子がおかしいとすぐに気付いた篝は、美鶴から離れてまわりを見渡した。


 そして。

 霊怪は美鶴の真後ろから現れた。



「何だ、これは​─────」



 美鶴の影が広がっていく。壁が、床が、墨汁をぶちまけたように徐々に黒く染まっていく。

 急激な景色の変化に二人で唖然としていると、やがて美鶴の真後ろの壁から、霊怪が姿を現した。


 その姿に、一瞬心臓が止まったような気がした。


 真っ黒の毛並みの巨大な猫。体調は三メートル前後というところか。

 口には凶悪なまでに鋭い牙がビッシリと生えていて、瞳孔の開いた金色の目は、額にもう一つ存在している。

 三つ目の猫の化け物だった。



「先輩! 離れてください!」



 篝の声が聞こえたところでようやく身体が動いた。篝は俺を庇うかのように前に立つ。


 巨大な猫は牙を剥き出しにしてこちらを睨んでいた。

 今の美鶴は表情が抜け落ちているかのような顔だ。まるで人形のように、目に生気がない。



「どうなってるんだあれ・・・・・・! 美鶴は、どうなるんだ!?」


「分かりません・・・・・・けれど、美鶴ちゃんが仲良くしていたという猫は、きっと最初から霊怪だった!」



 巨大な猫の迫力に、息が詰まりそうになる。口の中が次第に乾き、背筋が凍っていく錯覚を覚える。


 どうすれば、と噛み締めた唇からは血の味がした。篝のほうを見ると、彼女は拳を握り締めて猫を睨んでいた。

 その姿は、彼女との出逢の夜を思い出させる。またもや俺は嫌な予感して、思わず彼女の手を掴んだ。

 篝はびくりと肩を震わせると、振り返って言った。



「私は大丈夫ですから、美鶴ちゃんを連れて先輩は逃げてください・・・・・・!」


「絶対にしない。放っておいたらお前は鬼になろうとするだろ。なら、一緒に逃げなきゃ駄目だ」


「でも・・・・・・!」



 答えを聞く前に、猫の巨大な爪が篝を襲う。だがそれは彼女に届くことはなく、横に大きく飛ぶことで免れた。


 篝と目が合う。やるべきことは分かっている。


 隙を狙って、俺は美鶴を抱えて音楽室を勢いよく飛び出した。



「このまま! 外に出るぞ!」


「はい!」



 緊張で喉が焼けてしまいそうなほどに熱かった。壊れかけの廊下を駆け抜けて、三段飛ばしで階段を降りる。

 美鶴の身体は羽毛のように軽かった。



「くそ、しつこい猫だな・・・・・・!」


「美鶴ちゃんが狙いのようです! 先輩、西に走って! 窓からのが早いです! 私が隙を作りますから!」



 彼女に言われた通りに西に進むと、格子が壊れて割れた窓があった。人が通るのに十分な大きさだ。

 これなら、と思った瞬間、猫がもうすぐ側に来ていたことに気付く。



「っ、かがり!!」


「これくらい、このままの・・・・・・っ、私、でも​─────!」



 おそらく、格子の役割をしていたであろう一メートルほどの木の柱。

 それを彼女は拾い上げて、高く跳躍し、猫の鼻先に思い切り叩き込んだ。

 猫は悲鳴のような叫び声を上げる。苦しげに表情が歪む。

 当然だ。彼女に取り憑く霊怪は、頂点に君臨する「鬼」。封印されてもなお、一割の力が残っている。

 その一割の力でも、猫を怯ませるには十分だった。


 木の柱は篝の怪力に耐えられるわけもなく、真っ二つに折れて転がった。軽やかに着地した彼女のスカートがふわりと揺れる。


 猫が苦しげに叫んだ瞬間に生まれた隙を見逃さず、美鶴を抱えたまま俺と篝は窓から飛び降りる。

 壁際の地面に落ちていたシャベルに足がもつれそうになりながらも、校庭まで出ることに成功した。



「美鶴・・・・・・っ」



 美鶴の顔色は真っ青だった。さっきの人形のような表情とは違い、今度は苦しげに顔を歪めている。そのうえ、ときどき呻くような声まで聞こえてくる。


 彼女は一体どうなるのだろうか。そう思った瞬間​────猫が、壁をすり抜けてやってきた。



「先輩!」



 認識した瞬間と、猫が襲ってくるのはほぼ同時だった。

 反射的に横に躱そうとするも躱しきれず、巨大な体躯が俺にぶつかる。自分の身体が宙に浮いた。


 美鶴を咄嗟に庇うように背を向けたが、腕にはもう彼女の姿はなかった。

 心臓が大きく鳴り響いた瞬間、背中に猛烈な衝撃が走り、そのまま地面をゴロゴロと転がった。

 状況に頭が追いつかない。



「・・・・・・っ、がっ」



 視界が白黒に瞬いた。痛みに呻きながら、ふらふらと立ち上がって顔を上げる。

 随分と自分は遠くまで吹っ飛ばされたようだ。

 

 あらゆるものを食いちぎる鋭い牙と、絶対に逃さないという殺意を剥き出しに、砂煙に包まれながら猫は俺を見ていた。



「先、輩・・・・・・」



 篝の声がして、そっちに視線を向けると、彼女の腕には美鶴が抱えられていた。

その様子を見て、心底ほっとした。篝はぎりぎりのところで美鶴をキャッチしてくれたのだ。幼い体には外傷は見受けられない。


 俺は彼女に向かって笑みを向けた。せめてもの強がりのつもりだった。


 今、猫が敵意を向けているのは自分だけだ。目の前の怪物は今、俺だけを排除対象として見ている。


ならば。



「俺が、囮になる!!」

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