第2話

「​───……は」



 視界がチカチカと点滅する。

 呆然としながら、自分の腹を見た。


 どくどくと、傷口からおびただしい量の鮮血が零れていく。そこがどうしようもないほどに熱く感じた。


 血がごっそりと抜かれていくこの感覚は、嗚呼、なんだか懐かしいな。

 そんな風に、呑気なことを思ってしまった。



「貴方が、どうして!」



 自分の身体が冷たい地面の上に転がった。

 点滅する視界のなかで、女子生徒は絶望した表情で俺を見ていた。

 ようやく顔が見れた。綺麗な顔立ちをした少女だった。


 彼女が無事で良かった。


 思い切り咳き込み、血を吐いたのと、獣の唸るような声を聞いたのはほぼ同時だった。

 吐いた血の量が思ったよりも遥かに多くて、俺はもうすぐ自分が死ぬことを悟った。


 意識はそこで途絶えた。




***




 死にたくない。

 あの時も、同じことを思っていた。


 死にたくない。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない!


 息を吸い込めば、灰と埃の匂いがする。

もう、自分の何を犠牲にしても構わないとも思った。

 それほどまでに、事故にあったあの瞬間の俺は、生きることを望んでいた。願っていた。


 骨が折れ、腹に硝子破片が刺さり、頭を強く打ち付けても生き残れたのは、きっと奇跡に違いなくて。

 薄れゆく意識が落ちる寸前、俺は影の化け物が、じっと自分を見つめているのを見た。

 顔なんてないはずなのに、目が合っていると、あのときの俺は何故だか分かっていた。




***




 目を開けたらそこは可愛い女の子が目の前に​────とかいう展開は無かった。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、夜空にぽっかりと浮かぶ月だった。視界一面に広がる夜空で、星々も、月に負けないようにと煌々と光っていた。

 頭の硬い感触と視界に夜空が広がっているのを見て、俺はベンチに寝転がっていることを理解した。



「って……うぉあ!?」



 腹を切られた記憶が突然に蘇り、思い切り起き上がる。その拍子に、何か黒い布がバサリと落ちた。

何だろうと思い拾い上げてみると、正体はスーツの上着だった。

 誰かが俺に被せてくれたのだろう。

 慌てて砂をはらう。生地の感触からしておそらく夏用であり明らかに高そうなスーツだった。



「起きたかい、少年」



 暗闇を切り裂くような、凛とした声だった。

 ハッとして視線を向けると、そこには一人の女性が仁王立ちしていた。

 後ろで一つに束ねられた、燃えるような赤い髪に、思わず目を奪われる。



「……あの、俺、何で生きて……」


「お腹の傷は私が塞いであげたよ。危ないところだったね」


「貴方が……?」



 呆然としたまま呟く。

 寝起きの頭では上手く処理が追い付かない。


 女性は微笑んで、俺の顔をじっと見ながら答える。



「私レベルじゃないとあの傷は防げない。かなり深かったけれど、上手く治療出来たようで何よりだ。感謝したまえよ、少年?」


「はい!!有難うございます!!」



 思わず大音量で礼を言いながら、その場で土下座をした。

 女性は「良いって良いって」と手をひらひらさせながら笑った。



「にしても、君は人が良すぎるなあ。今の言葉、本当に信じたの?」


「え……違うんですか?」


「いや、何一つ嘘はついてないけどさ。君は人を信じてるんだねぇ。普通なら疑うところだよ?」



 女性はすっと目を細めて俺を見た。

 俺は何も言い返せずに、黙ったままスーツの上着を差し出すと、彼女はばさりと肩にかけた。黒いネクタイもきつく締める。


 この人は別に悪い人そうじゃなかったしなあ、と心の中で呟いた。



「さて。君には説明しなければ山ほどあるが……」


「あ……。良かった。目を覚ましたんですね」



 今度は柔らかな声が鼓膜を撫でる。

 振り向くと、同じ高校の制服に身を包んだ少女がやってきていた。うちの学校は今時珍しいセーラー服だ。

 彼女はペットボトルの水を俺に差し出した。礼を言って口に含むと、冷たい水が乾いた喉に、しみるように恵みをもたらした。


 彼女は安心したような顔で俺を見ていた。

 長い黒髪が風に揺れる。

 化け物に襲われていた女子生徒だった。スカーフの色から判断すると、自分よりも一学年下の一年生だ。



「……君も無事だったんだね。良かった」


「は、はい。お陰様で、私は大丈夫です。貴方が来たときは、本当にビックリしましたけれど」


「本当は、一緒に逃げようとしたんだけどさ……間に合わなくて、こんなことになっちゃった」



 俺は苦笑した。

 我ながら格好悪かったな、と思う。



「あまり無理をしては駄目ですからね。お腹の傷が開いてしまいますから」


「うん、ありがとう」



 深呼吸をして、ベンチに深く腰掛けた。

 そして破れたワイシャツの裾を捲る。

 腹を見ると、何事も無かったかのように綺麗さっぱり治されていた。

 本当に赤髪の女性が傷を治したと言うならば、一体彼女は何者なのだろうか。


 いや、彼女だけじゃない。

 あのときの化け物とは何だったのか。


 何故あんなにも、獣の化け物は牙を剥き出しに襲いかかって来たのか?



「混乱してるねえ、少年。良いよ、おねーさんが全部教えてあげよう。でも、その前にっと……」



 女性は少女のほうを見た。

 少女は首を傾げる。



「かがり、こっちに来て」


「は、はい」


「そんで少年の隣に座って」


「はい」



 かがりと呼ばれた少女は俺の隣にちょこんと座る。

 一体何をする気なのかと問う前に、女性が先に口を開いた。



「説明の前に、まずはお説教だ」



 びくりと少女の細い肩が揺れる。

 女性は気にせず、人差し指を彼女に突き立てて言った。



「かがり。敵意のある霊怪と出会ったとしても、緊急時以外は戦おうとするなと前にも言っただろう?」


「は、はい……ごめんなさい……」


「鬼の力を頼ろうとするな。使おうとするな。緩んだ呪縛をまた結び直すのは結構大変なんだぞ? それに……使いすぎると、戻れなくなる。そうしたらどうなるか、君だって分かるだろ?」


「……っ、はい。ごめんなさい、めぐりさん……以後気を付けます……」



 少女はしゅんと項垂れてしまった。

 叱り、叱られる場面を目の前にして、俺は何とも言えない絶妙な気分になっていた。


 何だろう。

 親の子供への躾を、真正面から見た気分だった。


 女性は「ふう」と溜息を吐き、こっちに向き合う。

 俺はぎくりとした。嫌な予感がしたからだ。



「君もだよ、少年。ああそうだ、名前は?」


「し、白神波都しらがみなみとです」


「そう、ナミトくんね。駄目だよ、ナミトくん。無闇矢鱈に突っ込んで行っては。ああいう類のものは、本来自分から突っ込んではいけない生き物なんだ」



 腰に手を当てて、女性は人差し指を俺に指した。

 「ああいう類のもの」。

 二年前の事故から見えるようになった、化け物​。

 突っ込んだのは自分の意思だが、少女を助けようとしたことを間違いだなんて思いたくは無かった。

 たまりかねて反論する。



「あの、お言葉ですが・・・・・・俺はあの状況を放っておく訳にはいかなかったと思います」


「でも君、かがりを助けようとして、助けられた側だろう?」



 ぐうの音も出なかった。



「良いかい? 人を助けることは素晴らしい。大いに結構。だがしかし、そこで自分がそんな傷を負うんじゃ意味が無い」


「・・・・・・・・・・・・」


「今回は私がいたから君は命拾いしたけれど、私がいなければ確実に君は死んでいたんだよ。助けようとした相手がかがりでなければ、間に合うこともなかった。君は幸運だっただけだよ」


「お、仰る、とおりで・・・・・・」


「人の生死が関わる問題に無闇矢鱈に突っ込むな。取れない責任を負おうとするな。まだ高校生とならば尚更だ」



 鋭い瞳が俺を射抜く。


 嗚呼、確かにそうだ。全て彼女の言う通りだった。

 助けようとして、助けられた。

 立場を、自ら逆転させた。

 なんとかっこ悪く、馬鹿馬鹿しく、愚かなことか。

 反論の余地なんて、全く無い。



「……大変申し訳ございませんでした。そして、命を助けていただき、本当にありがとうございました」



 立ち上がり、俺は深々と頭を下げる。



「うん。分かればよろしい」



 真っ赤な髪によく映える、同じような赤いルージュの塗られた唇が弧を描く。

 彼女が浮かべた微笑は存外優しく、自分の心臓が早鐘を打った。

 いかにも大人の美人なお姉さんといった感じの人だ。スーツ姿もよく似合っている。



「そうだ。私の自己紹介がまだだったね。私の名前は廻迷巡かいめいめぐり。職業は陰陽師の、見ての通りの美人なお姉さんさ!」

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