4.闇の男
「悲鳴を上げないのは賢明だな。主導権は俺にある。分かるな?」
男が囁くように言い渡す。
晶は相手の姿を見上げたまま、その名を呟いた。
「……リジー」
「そうだ、晶」
向かい合う顔には笑みが浮かぶが、晶は怖れしか感じていなかった。震える身体は咄嗟に逃げを打っていた。
「うあ……っ」
「逃げるか? だがそれは無理な相談だ」
相手に素早く腕を掴まれ、左肩を握り込まれる。あまりにも痛みに呻きが漏れた。
再び見上げれば、相手の表情には嗜虐が混じり込んでいる。痛みに震える肩の上に冷たい声が響いた。
「お前がただの狗なのは分かっている。殺すつもりはない。現時点ではな」
下水臭混じりの風が吹き抜け、見下ろす男が無意識に顔を歪めた。
足元では侵入者に驚いた数匹の溝鼠が駆け抜けていく。
裏路地に漂う殺気は小さな彼らにも届いているのかもしれない。晶が感じた怖れもそれに匹敵するものだった。
「相方の行方が気になるか?」
「相……方?」
「分かっているだろう? 甘いやり方でお前を殺し損ねた男のことだ」
「……」
「図星だろう?」
こちらの表情を覗き込んだ男の声が落ちる。
しかし晶はその言葉の意味を掴み損ねていた。思考は混乱したが自らの理解の範疇外で、何かよくない事態が起きていることは感じ取っていた。そこには深い不安も覚えていた。
「こっちを向け、晶」
俯いたまま黙っていると、リジーの冷たい手が頬に触れた。
望んだ反応を見せない相手に痺れを切らしたのか、強引に上を向かせようとする。その手を拒もうとするが他愛ない抵抗は封じられ、無理矢理顔を上げさせられた。
「いつまでも無関係を装うのはやめろ、くだらない。俺には全て分かっている」
「私が一体何を……」
「お前があの男の立場を窮地に追いやった。お前のことなど見捨てておけば、ああはならなかった。だが奴は未だにお前について一切語らない。どんなに痛めつけてもそれは変わらなかった。俺には分からない。お前はそんなに価値のある人間か?」
届いた言葉に晶は何も応えられなかった。
けれどこれまでバラバラだったパズルのピースが徐々に組み合わさっていくのを感じていた。まだ全てが揃わず、所々欠けているが〝彼〟がよくない現状にあるのは確信していた。
そうなったのはあの夜、彼が自分を確実に殺さなかったことに端を発している。
あの時彼は確実に息の根を止められたのに、しなかった。だから自分は今も生きている。
でもそのことが彼を窮地へと追い込んだ。こんなことになるのなら、彼はあの時自分を確実に殺しておくべきだった。
お前はそんなに価値のある人間か?
リジーのその言葉が全てだった。
「絶望か?」
耳に男の嘲る声が届いた。
逃れられない視線の先には嗜虐の笑みがある。
「いい表情だ」
避ける間もなく、リジーに唇を奪われていた。
驚いて咄嗟に歯を立てるが、相手は呻きも上げずにすぐに唇を離した。
間近で見下ろすその顔には酷薄が浮かんでいる。
そこには一欠片の欲望もない、刃物のような殺意だけがある。
男は指で無造作に血を拭うと、向かい合う相手の頬になすりつける。
晶は身動ぎもせずにただ立ち尽くしているしかなかった。
「明日の夜十時、あの川辺に来い。奴が奪ったものを持ってな」
「……奪った、もの……?」
「他の選択肢はない。また逃げ出すなら別だがな」
男は耳元に告げると、闇に呑まれるように姿を消した。
再度下水臭混じりの風が吹き抜け、相手が傍にもういないと分かっていても未だ存在を感じ取って、晶はそこから動けなかった。
頬に触れ、印のようにつけられた血を拭おうとするがそれは既に乾いて、擦っても取れない。
晶は重い足をアパートの方へ向けた。
下降していく気分を抱えて歩道を歩いていると、背後から近づく車の音が聞こえた。
ヘッドライトが暗い通りを照らし、車はすぐ背後に停まる。
降りてくる誰かの気配に晶は足を止めた。
歩み寄る相手が誰であるかは分かっていた。
振り返れば、闇に立つ女性の姿がある。
その相手を晶は力なく見上げていた。
「……すみません、コルトヴァさん」
無言の彼女の表情からは、いつも通り何も読み取れなかった。
けれど真っ先にその言葉を向けるのが正解であるのは分かっていた。
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