3.仮初めの日常 (2)

「いやー、こんな所ですんごく珍しい人と会ったー」

「ウェス?」

「一人かー? 晶」

 ウェスはふらふらした足取りで隣の席に座ると、新しい酒を注文する。

 その陽気さはいつも通りだがそれ以上に随分酔っているらしく、怪しい足取りに加え、少しろれつの回らない様子だった。


「そうだけど、ウェスも?」

「うん、オレもひとりー。あー、そういえば晶の家、確かこの近くだったもんなー。オレはねー、今ここら一帯の飲み屋をぼっちでハシゴ中~」

「ウェス、今日は休みだったの?」

「そーだよー、恋人も友達もいない暇なオレは一人寂しく酒を飲むしかないってわけー」

 返される言葉の調子はいつもと変わりないが、その中に微かな違和がある。

 彼らしくもない、投げやりな意味合いが少し滲む。グラスの酒を一気に飲み干したウェスは片肘をついてこちらを見上げると、口元に笑みを浮かべた。


「なんかさぁ、晶と店の外でこうやって会うのは変な感じだなー」

「……そうかな」

「晶はさぁ、こーいった感じの偶然に運命的なものを感じたりしないのかー? やっぱりオレとは結ばれるさだめだったんだー、みたいなー」

「……そういうこともあるかもね」

「はぁ……あのさぁ、前から分かってたことだし今更だけど、お前ってホンっトに感情とか言葉とかが少ないのな。こういう時は普通もっと食いついてこない? ウェス君、どうしてそんなに酔ってるの? 何かあったの? どうしたの? なんならあたしが聞いてあげようかー、とかさー」

「どうしたの、何か聞いてあげようか」

「はぁ……もう一回、はぁ……一体なんなんだよ、その呆れるほど取って付けたようなオウム返し……口を開いたと思ったらそれ? ああ、もうなんだかツッコむのも疲れてきた……まぁお前に何かを望もうとしたオレが最初から間違ってたよ……」


 そう言ってカウンターに突っ伏す同僚の背中を晶は見つめた。

 別に冷たくするつもりはなかった。やり方がよく分からなかっただけだった。

 晶は身動ぎもしない相手の背にできるだけ優しく手を置くと、できるだけ感情を込めてもう一度声をかけた。

「どうしたの、ウェス。何か、あった?」

「晶……やっぱりお前って優しいんだな。思ってた通りだよ。なぁオレの話、聞いてくれるか?……だけどその前に優しいついでのキスの一つでもしてくれたらオレ、もっと早く立ち直れ……」

「……」

「ごめん、冗談だよ……調子に乗りすぎました、二度と言いません、ごめんなさい。あのーすみませんウェイターさん、おかわり同じのをもう一杯」

「ウェス、もうやめておきなよ」


 晶は隣からウェスのオーダーを遮ると、代わりにミネラルウオーターを注文した。何があったか分からないが、彼の今夜の酒の量は許容範囲を超えている。

 ウェスは酒の代わりに置かれた水のグラスをしばらく見つめていたが、ようやく呟くように言葉を落とした。

「オレさぁ、実は今日、振られたんだよなぁ」

「……」

 晶はその言葉に無言を返した。

 多分相手は彼がずっと思いを寄せていた赤毛の彼女だった。

「でもさオレ、確かに玉砕はしたけど後悔はしてないよ。彼女は上流階級の人間だし、オレはしがないバーテンダーだし、多分駄目なんだろうなって分かってた。彼女はオレに優しく笑いかけてくれるけど、心のどっかではオレのことなんてきっと下に見てるんだろうなーって思ってた。だけど違ってたんだよな。バーテンダーだろうが何だろうが、彼女はオレ自身をちゃんと見てくれていた。色眼鏡で見てたのはオレの方で、ちゃんと見てなかったのもオレの方だった。彼女には親が決めた婚約者がいて、それでまぁ元から駄目だった訳なんだけど、彼女に思いを告げなければ、オレは本当の彼女を知ることができなかった。でもどんだけ格好つけて言ってみたところで、振られたっていう事実は変わらないんだけどな。だけど腐っててもしょうがない、それは分かってんだよ。得たものもあった。それでまた明日からも生きろってことだよな」

 ウェスはそう言って笑って、水のグラスを傾けた。その笑みには物悲しさもあるが僅かな明るさもある。カラになりそうなグラスを見つめて彼は続けた。


「なぁ、晶。お前には本気で欲しいって思ったものってあるか?」


 彼の突然のその質問に晶は虚を突かれていた。

 ウェスの視線はグラスに向けられたままだが、晶はその言葉に胸を射貫かれた気もしていた。

 自分が本気で欲しいと願ったもの。

 これまでの人生にそれはあっただろうか。

 手の届かないものには手を出さず、多くを求めず、欲しない。自分から強く何かを求めることなどこれまで一度もしてこなかった。

 でもそのことを自覚すらしていなかった。心の奥に秘めた思いも最初から手に入らないものだと、望む前にいつも放棄していた。

「あのさ、貪欲になることも時には必要だぜ。全力で走ってみることもな」

「ウェス……」 

「あー、えーっと、なんつってな。偉そうに言ってるオレの方がまだまだ精進が必要なんだよな。あの、すみません、水、おかわり」

 隣の相手は照れたような笑みを浮かべて目を逸らした。晶はそんな彼に笑い返して、中身が残る自分のグラスを見下ろした。

 ウェスの言葉はまだ心に留まっている。この言葉が今後どう展開していくかは分からなかったが、ここで今夜彼に出会えてよかったと思った。


 その後もうしばらくウェスに付き合った後、酔いが醒めた彼と店の前で別れると晶はアパートに向かって歩き始めた。

 時刻は日を跨ごうとしていた。

 闇の中、ガス灯の灯りがちらちらと揺れる。

 自らの身の振り方にはまだ惑いが残るが、微かな道筋も見えた気もする。自分には必要なものだったが、勝手な行動の先に見出したものであるのは間違いなかった。明日ホテルに戻ることになるだろうが、叱責はどれだけでも受けるつもりだった。

 騒がしい飲み屋街を離れ、辺りは人影もなく寂しい帰路だったが、次の角を曲がればアパートも見えてくるはずだった。

 それは一瞬のことだった。

 路地から伸びた何者かの掌で口を塞がれ、強い力で引き摺り込まれる。

 冷たい石壁が背についた。

 乱暴な動きで掌は外されたが、自分を見下ろす長身の男の姿に身が凍えた。

 晶は声を発するのも忘れ、相手の姿を見上げていた。

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