2.仮初めの日常 (1)
一週間の入院が必要と言われていたが、晶はその二日後に退院していた。
手足の痣はまだ残るが長袖ならば目立つことはなく、時に痛む肩の傷も無理な動きをしなければ日常生活に支障はなかった。
だが退院はしたが、晶は今街の中心地にあるホテルに身を寄せていた。ミナが言う警護のためだったが、無論不満はなかった。
自分が生きていることは知られてはならない。ミナの言葉の意味は重々承知していた。無理に元の生活に戻って周囲の人達を巻き込んでしまうことなど、絶対あってはならない。
しかしホテルに滞在して二日目、いけないと知りつつも晶は警護官の目を盗んで無断外出を図っていた。前日に用意していた帽子を目深に被り、ホテルを出て足早に駅の方に向かう。メトロに乗り、最寄りの駅で降車して再び歩く。歩き進める毎に周囲が見慣れた風景になっていくのを感じ取ると、言いようのない感慨深さを覚えていた。
アパートに辿り着き、あんなにも億劫に感じていた階段を少し懐かしくも思いながら上がる。数週間ぶりに足を踏み入れた自室は、代わり映えのない殺風景さで自分を出迎えてくれていた。
「ただいま……」
呟けば帰ってきたという実感が身に染み渡り、得も言われぬ安堵を感じ取っていた。
現在の状況に対し、理解も納得もしているつもりだった。けれど自分でも気づかない間に僅かずつでも心が磨り減り続けていたのかもしれなかった。
その後しばらく休んだ後、晶は部屋の掃除に取りかかった。無人だった部屋に掃除の必要はそれほどないのだが、少し身体を動かしたかった。床を掃く前に部屋の窓を開ける。通りに面した窓から下を見下ろすと、歩道に見覚えある少女がいるのに気づいた。向こうもこちらに気づいたのか、途端に表情を変えて声を上げた。
「晶!」
「リリア」
「晶、帰ってきたの?」
「えっと……それは……」
「今そっちに行くね! 絶対待ってて!」
リリアはそう言ってその場から駆け出した。廊下を駆けてくる音と扉をノックする音が響いたのはすぐだった。
「晶!」
扉を開けると教科書や筆記用具の入った鞄を背負い、息を切らした少女の姿がある。
「リリア、あのね……」
声をかけようとしたが、その前に彼女が抱きついてきた。
「晶、もうどこにも行かない? もう私に黙ってどこかへ行ったりしない? 晶がいなくなった時、ママはしばらくだって言ってたけど、もう戻ってこないんじゃないかって不安だった……ママだって心配してたよ……私は……晶がいなくてずっと寂しかった……」
「リリア……」
こちらをまっすぐに見上げる相手にそう告げられ、晶は困惑にも似た笑みを零した。
でも本当はただうれしかった。いつも寡黙な隣室の少女に思いをぶつけられ、こんなに慕われていたと実感する。そのことには慣れない照れくささのようなものを味わっていた。
「うん、もうリリアに黙っていなくなったりしない……」
晶は彼女の髪を撫でながらそう答えた。ずっと傍にいるとは言えなかったが、自分がこの先どこか別の場所に行くことになっても、その約束だけは必ず果たそうと思った。
「あのね晶……これから家に来てもらってもいい? あの……あげたいものがあるから」
「あげたいもの?」
リリアは身を離し、少しはにかむように笑って手を繋いできた。彼女に手を引かれて隣室に向かうと母親のサラは出かけているようで不在だった。
椅子に腰かけて待っていると、しばらくしてリリアがキッチンから慎重な面持ちで戻ってくる。その手には湯気を上げるマグカップ。彼女はカップをテーブルに置いた後、隣に腰を下ろした。
「えっと……この前ママと雑貨屋に行った時に紅茶の葉をお願いして買ってもらったの。でもどれを買えばいいのかよく分からなかったし、きっとまだ晶みたいに上手く淹れられない。だけどこれからもっと練習して上手に淹れられるようになるから」
リリアが差し出したのは温かいミルクティーだった。彼女に礼を言って口に運んだそれは充分すぎるほどおいしく、作った人の愛情が感じられるものだった。晶はその温かい飲み物をゆっくり味わいながら、過去を思い返していた。
リリアが自分との時間を大事に覚えてくれていたように、自分にとってもこの温かいミルクティーは忘れられない想い出の中心にあった。作り方はやや雑だったが、この飲み物は〝彼〟が時折自分に淹れてくれたものだった。今も隣室の少女に同じものを淹れるのはそのせいだった。けれど、その想い出はもう霞んでしまった。今はここにいる少女のために新たな思い出を刻んでいった方がいいに違いなかった。あの屋敷での出来事や彼のことは忘れてしまった方がいい。
いつか戻ることが可能なら自分の居場所はきっとここだった。少しでもないがしろにすることは今の自分が一番してはいけないことだった。
「リリア、ありがとう……」
「ん? 晶、お礼はさっきも言ってもらったよ」
「うん、そうだね。そうだった」
その後自室に戻った晶は部屋の掃除を始めた。
床を磨き、窓を拭き、バスルームを掃除し、いつか必ずここに戻ってきたいという思いを強くする。
けれどもふと、自分の現状を思い出す。
ホテルを無断で抜け出したことはミナの耳に既に入っているはずだった。自分が立ち寄りそうな場所などたかが知れていた。この勝手な行動に許された猶予はそれほど多くはないはずだった。
掃除を終えた後は簡単に作った夕食を食べ、晶は早めにベッドに入った。疲労と安堵からすぐに眠れると思ったが、眠りはいつまで経っても訪れてくれない。
全て忘れようと決めた。しかし身体が受け入れようとしていない。それでいいのかと逸る気持ちが心の奥の方で疼いている。その思いは無理に目を閉じても収まりそうもなかった。
晶はベッドから降りると身支度をして部屋を出た。
アパートの近くに幾度か行ったことのあるバーと言うより大衆酒場といった趣の店がある。到着した店の扉を開くと、店内は様々な人種の人達で騒がしいほど賑わっていた。多くの異国語が飛び交う中、晶はカウンター席に着くとソーダ水を頼んだ。
周囲は知らない人ばかりだが、なぜだか安心を感じていた。ちびちびと一人、ソーダ水を飲んでいると何の前触れもなく誰かが肩に手を置いた。
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