4.再生と再起

1.暗い水の底から

 どこまでも暗かった。

 目を凝らしても、何も映らない闇の恐怖を身を以て実感していた。

 全てが心許なく、自らの存在が消えてしまったようにも感じる。

 でも、実際そうなのかもしれなかった。

 自分は死んだのかもしれない。

 闇に響き渡った銃声、熱い痛み。

 鼓膜を打つ水音と全身に感じた衝撃。

 自分は銃で撃たれ、川に落ちた。

 あの急流に呑まれて、生きているとは思えなかった。

 不意に喉の奥に入り込んだ暗く重い水の記憶が蘇る。

 濁流に絡め取られ、身体は何一つ思い通りに動かせなかった。

 永遠に続くようにも感じられたそれは終わりのない責め苦だった。

 いつしか意識を手放せていたのは、幸運だったかもしれない。

 カラカラと回る車輪の音がした。

 遠くで響くその音が段々近づいてくる。それに紛れて幾人かの声も届く。

 自分はあの世とこの世の狭間にいる。

 ぼんやりそう思っていたが、それらの音が次第に現実味を帯びてくる。

 底のない泥の奥から引き摺り出されるように晶は目を覚ましていた。


「こ……ここは……?」

 発した声は酷く嗄れていた。

 霞む視界は薄暗い天井を捉えている。肌に触れる少し硬めのシーツ、鼻腔を擽る薬品のにおい。

 目線を動かせば、照明が灯る廊下を時折医師や看護師が行き交う。状況把握まで暫し時間がかかったが、晶はここが病院の一室であると認識した。

「私……どうやって……ここに……」

 もっと周囲を確認しようと身を起こすが、途端左肩に激痛が走った。

 改めて見下ろせば、入院着から覗く腕には点滴針が刺さっている。その腕も多くの痣に覆われていた。

 慎重に身動ぎしながら見回すと、窓の外は既に陽が落ちている。病室は二人用であるようだったが隣のベッドは空いていた。もう一度部屋の外に目を向けると、扉の傍に誰かが立っていた。

「目が覚めたか」

 そう呟いた相手は「医師を呼んでくる」と告げて姿を消した。言葉通りじきに医師が現れ、一通り診察を受け終わると先程の相手が再び姿を現した。

 彼女、ミナ・コルトヴァは静かに室内に歩み入るとベッドの傍に立った。


「具合はどうだ?」

「ええ……どうにか大丈夫です……」

 彼女はその言葉に頷くと手に持った鞄を置き、引き寄せた椅子に腰を下ろした。

「そうだな、訊ねたところでそのようにしか答えようがないな。愚問だった」

「コルトヴァさん……私、どうやって……」

「君は川岸で意識不明の身元不明者として見つかった」

 問いかけには彼女の淡々とした返事が戻る。

 その後、彼女の口からこれまでの経緯が語られた。

 川に落ち、下流まで流された自分を見つけてくれたのは早朝の釣りにやって来た男性だった。彼は初め水死体を発見したと驚愕したがすぐにまだ息があると気づき、通報した。その後病院に搬送されたが身元を示すものもなく、肩には銃創がある。病院側は義務の一環として警察に連絡し、その情報は警備隊所属のミナの耳にも入ることになった。

「君が発見されたのは一昨日の早朝、今日まで君は意識を失っていた」

 晶は届いた言葉に項垂れるしかなかった。知らない間にそれだけの時間が過ぎてしまったことには、重い気分を過ぎらせるしかない。

「全身の擦過傷に中程度の打撲、肩の銃創。しばらく痛みも断続的な発熱も続くと思うが、君は若い。安静にしていれば回復も早いだろうと医師も言っていた」

 辿った経緯を思い返せば、命があったのも致命的な傷を負わなかったのも運がよかったとしか言えなかった。釣り人に発見されなければもっと下流に流され、誰にも気づかれることなく、そのまま死んでいたかもしれなかった。

 流れに逆らうな。身を任せろ。

 ふと彼の言葉が蘇った。途中で意識を失い、期せずしてそうなったことが今も生きていられる一因かもしれないと晶は思った。


「話せるか? 晶」

「……はい」

 しばらくの沈黙の後にミナの声が届いたが、彼女が何を訊ねたいかは分かっていた。彼女には起きたこと全てを知る権利があり、自分には語る義務がある。

「……慎重に行動したつもりでしたが、気づかれてしまいました……それで彼らに捕まった後……シリルの運転手に撃たれて川に落ちました……」

 だが言葉にしてみれば、たったそれだけのことだった。自らの失敗を改めて口にすれば、起きてしまった非情な現実が深く身に染みていった。

「すみません、コルトヴァさん……私、何もできませんでした……」

「謝るな、晶。君を危険な状況に陥らせて悪かった。すまなかったな」

 ミナからは謝罪が届くが、晶は顔を上げられなかった。

 自分は失敗した。

 何も得られず、その上怪我まで負い、こんな手間までかけさせてしまった。それに彼女の言葉端から、やはり最初からさほど期待をかけられていなかったのではと感じ取る。しかしそのことと自らの失敗は同列に並べられない、別物であるはずだった。


「入院は今後一週間ほどだそうだ。費用は全てこちらで見る。今は心配せず養生しろ」

「はい……」

「それでだが」

 ミナはそこまで告げると、足下の鞄から真新しい衣服と靴を取り出した。

「君の服はもう着られる状態ではなかった。これはこちらで用意したものだ。大きさが合わなかったら、すまない」

「いえ、大丈夫です……」

「それとこの上着は君のものか?」

 ミナが鞄から続けて取り出したのは、黒い上着だった。

 あちこち破れ、酷い状態になっているがあの時に〝彼〟に手渡されたものだった。明らかな男性物であるその上着を彼女は訝しげに掲げていた。

「いえ、その上着は彼……前にコルトヴァさんに言っていたシリルの運転手に渡されたものです……撃たれる直前に」

 告げるとミナの表情がほんの僅か変化がした。

 でもそれはすぐに拭い去られ、彼女は上着を見下ろしながら問いかけた。

「悪いが晶、これを預かってもいいか」

「……ええ、私は構いませんが……」

 そのように訊ねられたが、晶は自分に所有権があるとも思えなかった。返事を戻すと彼女は上着を手に立ち上がった。

「晶」

「はい」

「君がどう思っていようと、私は君ができる限りのことをしてくれたと思っている。それで今後についてだが……君は命を狙われたが、今も生きている。それが彼らの知るところになれば、再び命の危険に晒されるだろう。今後の状況次第では安全のためにこの街を離れてもらうことになるかもしれない……そのことを念頭に置いていてほしい」


 彼女が病室を去ると、再度の静寂が降りていた。

 今後どうなっていくのか、全てが不透明でしかなかった。

 もしかしたらこの街を離れ、別人として生きていかねばならないかもしれない。

 そうなればこの街で手にした大切なものは、手放さなけらばならなかった。

 それはとても悲しいことだが、自分が払わなければならない代償だった。

 晶は無言でベッドに横になった。

 行き先が何も見えず、どのように考えればいいかも分からない。

 目を閉じれば、彼の顔が浮かんだ。

 しかしもう二度と彼と会うことはないだろう。

 そう思えば涙が零れた。

 晶は毛布を頭から被ると、少しの間だけでも何も考えずにいたいと思いながら固く目を閉じた。

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