6.『彼』の悔恨

 自室の扉を閉じると、ライは窓際に置いた椅子に腰を下ろした。

 使用人宿舎の窓からは、屋敷の裏手を見渡すことができる。ここに度々腰を据える理由は他にもあったが、いつしか気づけば彼女の姿をいつも追っていた。


 彼女と初めて出会ったのは六年前だった。

 当時住んでいたアパートの隣室の少女、まだ十才ぐらいだった彼女はよく一人であてもない時間を階段で過ごしていた。

 身持ちの緩い母親とその再婚相手。彼らの関係性がうまくいっていないことは、付き合いの浅い他人でも察しがついた。寂しげな姿を何度も見かけながら気になってはいたが、年端もいかない少女に二十二才の男が声をかけるのには躊躇がいった。


「何してるんだ、こんな所で」

 それでもある日思わず声をかけていた。

 こちらを見上げた顔には当然当惑が見えたが、自らの見た目が万人受けでないのは誰よりも承知していた。気まずいその場は笑って誤魔化して、何もなかったように立ち去ることにした。

「えーっと、やっぱ怪しいよな……それじゃ俺はこれで……」

「あの、待って。もしかして裏の猫達によく餌をあげてないですか……?」

「え? あ、ああ……」

 場を去ろうとしたが、そんな言葉で呼び止められていた。

 当時アパート裏にはどこかからやって来て棲み着いたキジトラ猫の親子がいた。特に思い入れがあってしていた訳ではなかったが姿を見れば、パンや水などをやっていた。


「この辺りの人達は猫に餌をあげたりなんかしない。自分の得にならないから……でも、あなたはどうして……?」

「どうしてって、そんなことに理由なんかあるか?」

 少女は大きな黒い瞳で見上げながら訊ねたが、そう答えると少し不思議そうな顔をした後に微かに笑って立ち上がった。

「私の名前は晶です。お隣さんは?」

「あ、俺か? 俺はライ」

「ライ? それは嘘じゃないんだよね?」

 黙っていると寂しげだが、笑うと誰の目をも惹く魅力を持っていた。

 それからは姿を見つければ声をかけるようになり、その後しばらくした冬の晩、彼女が内面に秘めた苦悩を垣間見せてからは、これまで人に語らなかった自らの生い立ちを話すまでに関係性は変化していった。


『あの手袋、今でも持ってる。毎年使う度に思い出してたよ』

 彼女が言ったそれはその冬の晩に渡したものだった。

『違う。本当は毎日思い出してた。だからここで再び会えた時、とてもうれしかった』

 そしてその言葉。

 必ず戻ってくる。

 七年前、自分が彼女に言った無責任なあの口約束。それを時折思い出しては、不確かな言葉を放った自分の浅はかさを悔やんでいた。

 別れた数年後にあのアパート近くに行く機会があった。でも既に建物は取り壊され、そこには雑草が生い茂る空き地あるだけだった。

 道標はもうなかった。

 二度と会うことはないと思っていた。

 けれど再会は果たされた。

 しかしそれは常に距離を置かなければならないものだった。


「ああするしか……」

 父親は物心つく前にこの世を去った。その後母と二人で様々な国を渡り歩くことになった。だがその母も八才の時にこの世を去り、それ以降は盗みやスリ、生きるためには何でもしてきた。十三才の時に当時根城にしていた街で幅を利かせていたギャングの用心棒になった。父親譲りの体格を生かして母の死後、初めて存在を許される場所を見つけることができたが、所詮その居場所も犯罪組織でしかなかった。

 裏社会に長年身を置きながらも何度も立ち止まり、後悔を繰り返したが、人は分かっていても簡単な方に流される。ずぶずぶに浸かってしまった場所からなかなか抜け出せずにいた。それでも運よく二度目の人生の転機を果たせたその一年後、あのアパートで彼女と出会った。

 自分では変わったと思っていても、染みついた裏社会の匂いはいつまでも消えない気がしていた。けれど自分に向けられる彼女の瞳を見ていると、母と放浪していた頃を取り戻せているのではないかといつも感じさせてくれた。


 この屋敷で再会した時、彼女だとすぐに分かった。でも近づくことは許されず、歯痒い思いをした。

 しかし結局六年前と同じように、中途半端な手しか差し出せなかった。そしてついにはこの手で彼女を川に落とした。

 今でも助かってほしいと願っている。だがその身勝手な願いは自分の正当性のためでしかなかった。


「最低だな……」

 あの判断は正しかったのか。

 暗い部屋で佇みながらライは自分に問う。

 やらなければ二人とも殺されるのは分かっていた。でもだからと彼女をあまりにも危険な目に遭わせた。再び会えたとしても、合わせる顔はない。あの時の自分は確実にを選び取っていた。

『君が証拠を得て、無事に戻ることを望む』

 この屋敷に自分がいる理由。

 は既に手に入れていた。

 彼女に渡した上着には『それ』の在りかと証拠の一部が隠してある。

 信用を寄せる『あの女性ひと』は気づいてくれるだろうか。だがそのために彼女を道具にした。彼女が生きていようが死んでいようが、確実に『あの女性ひと』に届く器にした。そのことに心を痛めても、無情な自分の行為は変えようのない事実だった。


「俺は……」

 堂々巡りの思考は、響いたノックの音で中断された。

 ゆっくり立ち上がって扉を開けると、川辺で別れたばかりの男が立っている。

「何です、俺にまだ何か用が?」

「彼がお呼びだ」

「……用件は?」

「用件? それを言う必要が? いいご身分だな。ライ・咲良さくら特別捜査官」

 ライは自分の表情が即座に歪むのを感じ取っていた。

 脳裏には暗い流れに消えた彼女の姿が浮かび上がる。

 自分は一体何をした?

 あの判断はきっと、正しくなど、なかった。

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