5.別離の川辺

 轟々と流れる川の音がいつも以上に大きく聞こえた。

 晶の背後には三人の男がいる。

 森の入り口に立つ黒髪の男。

 その隣に立つ白金の髪を持つ男。

 そして、すぐ後ろにいる男は晶が六年もの間、心の拠り所にしていた相手だった。


「何も、言わないのか?」

 呟く声が届いたが、晶は何も応えなかった。

 言葉は何もなかった。彼への思いは自分が勝手に積み重ねていたものでしかない。六年もの時が流れれば、お互い様々な変化が訪れているはずだ。実際自分もあの頃の子供ではない。こうなってしまったことに一方的な恨み言など吐くつもりはなく、でもそんな相変わらずの渇いた感情を連ねる自分には苦笑が漏れた。

 しかしその反面、心の裏側では六年分の思いが行き場を失って胸を押し潰そうとしている。けれどもそれを苦しいと感じるのも、あともう少しの間だった。

「川の縁に立つんだ」

 黙っていると川を背にして立つよう命じられる。

 晶は言われた通りにすると、頭上の月を眺めた。

 自分の命を奪うのが彼であったことに、ほんの僅か安堵している。彼ならリジーのように残酷なことはしない。だがそんな考えを過ぎらせる自分には、再び笑いが漏れた。殺されることに変わりはない。死の間際でもこんな呑気なことを考えていられる自分の意外な一面を最後の最後に知って、もう一度笑いが零れた。


「何、笑ってる」

「ライ」

 晶は相手を見据えると、六年振りにその名を呼んだ。

 ようやく果たせたそのことには安堵に似たものを感じる。

 しかしこれも最後と思えば、どこかに残っていた感傷的な思いが割り入った。

「あなたに貰ったあの手袋、今でも持ってる」

「……」

「毎年使う度に思い出してたよ。ううん、違う。本当は毎日思い出してた。だからここで再び会えた時、とてもうれしかった」


 森の入り口にいる二つの影に聞こえないよう晶は小さく呟いた。

 発した言葉に相手は応えない。

 晶はこの場所で彼と過ごした穏やかな時間を思い出すが、もうよかった。これ以上彼に何かを言っても困らせるだけだ。

 向かい合う表情は、月が雲に隠れたせいで見えなくなった。最後にもう一度見たかったと過ぎるが、それは叶わない方がいいのかもしれない。

 晶は轟々と流れる川の音を背に目を閉じた。

 怖れは残るが、心は水を打ったように静かだった。

 これまでどんなつらい状況にあっても、死に逃げようと思ったことはなかった。

 でも死は誰の背後にもいる。そのように感じた今なら、隣人のようなそれを殊更怖れなくてもいい気がしていた。


「晶」

 相手の声が届いた。

 目を開けると、雲が流れ、月明かりの下に立つ相手の姿が目に映った。

 六年振りに名前を呼んでくれたそのことには覚悟が揺らぎそうになる。しかし向かい合う相手はなぜか自分の上着を脱ぎ落とすとそれを差し出した。

「これを着るんだ」

「えっ?」

「早くしろ」

 彼は有無を言わさず上着を手渡してくる。疑問は感じたが、頑なに拒絶する理由もなかった。受け取ってその大きな上着に袖を通すと、ボタンも掛けろと続けられた。


「ライ、これは一体……」

「晶、流れに逆らうな。身を、任せろ」

 身を寄せた相手の唇が耳朶を掠め、囁きが届いた。

 その直後、一歩下がった相手に胸を突かれ、身体が背後に倒れる。

 闇に響き渡った銃声と、左肩の熱い痛み。

 大きな水音と全身に感じた衝撃。

 その全ての意味を悟る前に晶の身体は暗い水のうねりに呑まれ、沈んでいた。





******





「あの娘と何を話してたんだ?」


 まだ硝煙漂う銃を差し出すとその言葉が届いた。

 目前に立つ黒髪の男の目には、変わらぬ疑惑が滲んでいる。この男の職務上仕方のないことだと理解しているが、忠犬のようだとも思う。

 密かな皮肉の笑みを浮かべると、ライは思いつく言葉を並べた。

「何を言ったかまでは忘れたが、命乞いの言葉だったよ。誰だって死にたくはない。当然だと思う。だからヘイズさんが取り立てて気にすることでもない」

「ふん、そうか?」

「そうです」

 真実が半分以上もない言葉を放るとライは銃を渡し、相手に背を向けた。

 こんな暗闇の中、いつまでも一緒にいたい相手ではなかった。

 できれば早く自室に戻って強い酒でもかっ喰らいたかった。


「待て、質問はまだある」

 足を止めて振り返れば月も消え、真っ暗な闇に立つ男の姿がある。

 死に神か。

 思わず揶揄が漏れるが、それが真実ではないかと思う時がある。

 リジー・ヘイズ、十五年もあの主の傍にいる男。

 自身を捨てても何かを守ろうとする人間ほど対峙したくない相手はいない。

 闇に表情を隠したまま、ライは相手に応えた。


「何です?」

「どうして彼女に上着を着せた?」

「上着? ああ……そのことか。夜はまだ冷える。きっとあの世も同じだろうと思っただけだ。餞だよ」

「餞?」

「彼女の歳を知ってるか? 十七だ。そんな娘にそれくらいの情けをかけたって罰は当たらない」

 川風が吹き、舞い上がった落ち葉が互いの間を流れていく。

 彼の主はとっくに屋敷に戻っている。

 彼の主――、あの男は今夜のショーを存分に楽しめただろうか。自分の手は決して汚さない死の見せ物。

 だが『あの男』は知っている。闇深い記憶は自身の身に全て積み重なってゆくことを知っている。あの男はそれを知りながら自らその場所に身を落とし続け、なお自らのその姿を傍観し続けている……。


「もういいか? 夜の川は好きじゃないんだ」

 再度背を向けると、男の声はもう追いかけてこなかった。

 けれど川辺を離れ、森を抜けても、耳にこびりついた深闇の川の音はいつまでも消えることがなかった。

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