4.運命の夜、最後の夜

 寝室の金庫の秘密を探る機会はその翌日の夜、思いがけず訪れていた。

「晶、もう一本フィルムが見つかった」

 その日の夕食時、食事を終えたシリルがグラスに手を伸ばしながら言い伝えていた。

 彼の母、マリエラが出演する映画、そのフィルム。しかし昨晩のものが最後の一本と言っていたことを晶は思い出していた。


「全てを破棄したつもりだったがまだ残っていたようだ。夕方になって新たな情報が入った。売り主は足元を見て値を吊り上げようとしている。金に糸目はつけないが、相手の言い分通りに進む展開は好まない。今日は少し遠出になる。向こうの出方次第で交渉にも時間がかかるだろう。今夜はリジーと二人で出かける」

 届いたその言葉を聞いて、晶は密かに胸を撫で下ろしていた。茫然と立ち尽くす昨夜の支配人の姿。今夜もそうなるとは限らないが、同様の姿を再び目にするのは心が痛かった。その危惧を避けられたのは僅かながらのいいことなのかもしれなかった。


「どうした?」

「いえ……」

「何か悪巧みでも考えているのか」

「えっ? いえ、そんな……」

 晶はやや動揺しながら相手の視線を躱した。今夜同行しなくてもいいことに安堵を覚えたのは確かだが、同時に一つの考えが頭を過ぎっていた。

 彼らがいなくなるのならこれはチャンスではないか。そう思っていた。

 心で思っただけの企みを相手に知られるはずなどなかったが、全てを見透かすような瞳で見つめられると馬鹿げたその心配すら現実になりそうだった。

「シリル、時間だ」

「分かった。晶、見送りを」

「……はい」

 リジーの登場に晶は再度胸を撫で下ろしていた。あの状態が続けばまるで操られたように自ら全てを露呈させてしまいかねない。

 二人の後を追って外に出ると玄関前に黒いセダンが停められている。リジーが運転席に乗り込み、シリルが車に歩み寄るが不意に足を止め、「晶」と名を呼ぶ。

 傍に寄れば、唇を重ねられた。軽く触れるだけではない魂まで奪い取ろうとするそれには無意識に足が逃げを追うが、強い力で引き戻される。


「行ってくる。いい子にな」

「はい……」

 解放された時には水に溺れた時のような感覚が身を襲った。妖しさを放つ微笑には今更のように背筋が震える思いを感じるしかなかった。

 二人が乗った車が屋敷を離れ、道の向こうに完全に見えなくなっても晶はその場で佇んでいた。

 やはりシリルには気づかれているのではないだろうか。

 そんな怯えと怖れが入り混じった感情が渦巻いた。答えの出ない懸念が幾度も過ぎり、でもこのまま迷い続けても返答が得られる訳でもなかった。いつまでも足踏みを続けても進展はない。この機会を上手く使わなければ、何も得られないはずだった。


 晶は夜道を見据えるとその場でしばらく待ち、車があの日のように引き返してこないことを確認してから屋敷に戻った。

 屋敷の中は静かだった。この時間なら多くの使用人は離れの自室に戻っているか、もしいたとしても今から自分が向かう場所に足を踏み入れたりしない。

 ひっそりとした屋敷内を晶は周囲を幾度も確認しながら進んだ。

 目的の場所に辿り着くと一度足を止め、慎重に辺りを見回す。廊下に人影は見えず、窓から外を窺うが車が戻ってくる気配はない。

 書斎は以前と同じく鍵が掛けられていなかった。

 月明かりに照らされる室内に入り込み、デスクの引き出しから辞書を取り出すと中の鍵を手早くポケットにしまう。再び廊下に戻り、周囲を確認しつつ今度は隣の寝室に忍び込む。あの日の記憶を頼りにアンティークキャビネットに歩み寄ると、その上に掲げられた鏡を取り外す。


 その場所には鏡よりも一回り小さい金庫の扉があった。

 ダイヤル式ではなく、鍵穴と取っ手だけが表面にある。

 取り出した鍵を鍵穴に差し込むと、かちりと音がする。ようやくここまで辿り着けたそのことには溜息が漏れた。

 晶は扉を開いて、あの夜見た帳簿らしきものを目に映そうとした。

 でも、中には何もなかった。

 金庫の中はカラ。

 何度確かめても中には何もなく、帳簿や書類どころか塵一つ残されていなかった。

「何も、ない……?」

「そこで何をしている」

 突然照明が灯り、響いた声に晶は弾かれたように振り返った。

 背後にいないはずの男が立っている。

 周囲を何度も確認し、人の気配にも気を遣っていた。

 だが黒い服を着た長身の男は間違いなく扉の傍に立っている。

 あの夜のこと。

 暗い感情に襲われながら晶はあの晩のことを思い出していた。


 シリルが用心深い人間であるのは分かっていたはずだ。しかし彼は自分以外の人間が傍にいるにも拘わらず、隠し金庫を開け、中にあるものを曝した。

 けれどそうではなく、

 そうすればこの先相手がどう動くか分かっていたからだ。今夜リジーと二人で屋敷を離れてみせたのも、それを試す目的があったからに違いなかった。

「おい、小娘、俺は何をしていたのか訊いてるんだ」

 リジーの冷たい声が再度飛んだ。

 彼の前に言い訳を並べなければならなかったが、晶は何も言えずにいた。

 自分はここで彼が思う通りの行動をしていたにすぎない。

 元からリジーには疑われていた。どんな言い訳をしても彼を説得できる気がしなかった。口を開くこと自体が無駄だとしか思えなかった。

「何だ、返事もできないか」

「うっ……」

 歩み寄ったリジーに肩を掴まれ、そのまま壁に押しつけられる。左腕で喉元を強く押さえ込まれ、動こうとすればより力が増した。


「尻尾を出したか、ようやくな」

 抵抗しようとすれば足の間に膝が割り入り、微かな身動ぎもできなくなる。

 見下ろす相手の瞳に晶は殺意にも似たものを感じた。

 初めてここまで間近で見たリジーの相貌は怖ろしいほど整っていた。だが彼の主とはまた異なる畏怖がそこにある。粗暴の色。怒号を上げなくとも相手を怖れさせるその気配には、身が縮まる思いしかなかった。

「お前は何を探ろうとしている? どこの誰に雇われた?」

「私は……何もしてない。これも、あなたの思い違い……」

「思い違い? 主の不在時に寝室に忍び込んで金庫の鍵を開けたことが?」

 その言葉と同時に床に引き倒され、身体に跨った相手に再度見下ろされる。素早く頭上でまとめられた両腕は片手で拘束された。倒された衝撃で束の間意識が朦朧としていた。その中でも放った言い訳が陳腐でしかないのは晶自身も分かっていた。

 これ以上言える言葉もなく、この場には失敗の事実だけがある。彼女ミナの期待には応えられず、駒としての役目も果たせなかった。しかし今はこの目前の相手にどんな目に遭わされるのか、それが酷く怖ろしかった。


「華奢だな。そんな身体でお前は一体何をしようとしていた」

「私は……」

 もう何もできなかった。無力な自分に落胆しながら目を逸らせば、相手の嗤い声が届く。

「何とか言ってみろ。それとも他の奴にしたように俺を色仕掛けで懐柔してみるか?」

 リジーの顔が近づき、唇が寄せられる。

 吐息を間近に感じるが、反面そこに欲望など全く存在しない空疎な恐怖に息が上がりそうになる。

「何だ、やらないのか? だったらこっちの番だ。そうだな、まず顔でも切ってみるか。どんな女でも大抵これで喋る。なぁ小娘。今すぐ喋るか、俺に切られるか、どっちにする? 俺はどちらでも構わない」

 告げる男の手にはナイフがある。それは戯れに唇をなぞって頬へと当てられた。

「疵物になれば誰もお前など見ない。最初っからそれだけの女だ。唯一の商売道具をこんなくだらないことで台無しにしたくないだろう?」

 リジーに話しても話さなくても、結果は変わらない。

 晶は暴力に手慣れた相手に怖れを抱きながらもそう思っていた。変わらない結末しかそこに待ち受けていないなら、何も言わないと決断することが今の自分に唯一できることだった。


「そこまでにしておけ、リジー」

 殺伐とした雰囲気が漂う部屋にその声が響いた。

 届いた声には拘束の力が少しだけ緩む。しかし晶は新たな声の主に目を向けることもしなかった。現れた相手は救世主ではない。ほんの僅かな間、延命できただけにすぎなかった。

「もういい。彼女は喋らない」

「いいや、シリル、まだこれからだ。痛めつければ何かを喋るはずだ、この女でもな」

「この後は彼に任せる」

「彼? あの男に?」

「彼には今夜彼女を見張っておくよう伝えていた。この現状も彼の報告あってこそだ。締め括りの役目は彼に与えるのが筋だろう」

「分かった……シリルがそう言うなら奴に任せる」


 立ち上がったリジーが主の方へと歩み寄る。

 その姿を目で追いながら、晶は次第に自分の表情が強張っていくのを感じていた。

 シリルの背後には一人の男が立っている。

 その相手は今、誰よりもその場にいてほしくない相手だった。

「彼女はお前が始末するんだ。できるな、ライ」

「はい分かりました、ブラッドフォードさん。私が始末します」

 シリルの手には銃。

 それを無表情で受け取った相手は感情のない声で応える。

 晶は深い闇の底に沈んでいくような感触を味わっていた。

 自分を見下ろす相手の瞳がその深い闇のように見えた。

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