3.フィルムと炎

 それから二日後の夕刻、晶はシリルの乗る車に同乗していた。

 二日前決心は新たにしたが、まだ何も掴めていなかった。しかしもどかしさは確かにあるが、焦りがよい結果を呼ばないことは分かっていた。それに心の奥にはあの川辺での出来事がまだ残っている。あの夜の出来事は今も密かに心の支えになっていた。

 晶が直近の目標としているのは、シリルの寝室で目撃した隠し金庫の中身を確かめることだった。そのためには再度書斎に忍び込み、辞書の中に隠されたあの鍵を手に入れる必要がある。どちらも容易いことではなかった。何かを悟られたり、見つかってしまえば次の機会は〝絶対に〟ない。今自分の心に刻まなければならないのは現状を慎重に見極め、訪れる機会を辛抱強く待つことだった。


 晶は背後に流れていく街の景色に目を移した。

 今日はリムジンではなく、リジーが運転するセダンで移動していた。闇を思わせる黒い車は夕暮れの街を西の方角に向かっている。

 車の行き先は街外れにある旧市街地方面だった。

 その場所は晶が住む街とはまた違った寂れた雰囲気が漂っている。戦後、街の中心地は北東に位置を変え、隣接するこの土地は時が経つと共に次第に寂れてしまった。それでもこの地に頑なに居を構える者や、商売を続ける人達が僅かながら今もいる。活気や華やかさはなりを潜めてしまったが、ここに留まる人達の強いこだわりが随所に感じられた。


 セダンが停車したのは、過去には大勢の人が集っていたであろう映画館の前だった。

 車を降りたシリルの後についていくと、建物の前で待ち構えていた初老の男性が歩み寄ってきた。

「ようこそ、ようこそ、ブラッドフォード様。こんな所まで足を運んでいただき、誠にありがとうございます!」

 男性はこの映画館の支配人と思しき人物だった。

 古いが丁寧にプレスされた濃紺の制服を纏い、満面の笑みを浮かべる彼は恭しく挨拶する。その後ターナーと名乗った彼は襟を正すと、再度来客の方に向き直った。

「ブラッドフォード様、改めていらっしゃいませ。本日はご所望通り貸し切りにしております。ご要望の品も上映後、ご自由にしてくださって、もちろん構いません」

「ありがとう、感謝する」

「では、こちらです。皆様、どうかお足元にお気をつけて」


 映画館の内部は外観と同じく古びていた。手入れは行き届いているがやはりこの数年、客はほとんど訪れていないように見える。

 ポップコーンや飲み物、プログラムが並ぶはずの売店は長い間使われた形跡がなく、暗がりになったその場所はずっと前に役割を終えてしまった気配がある。見回しても他の従業員の姿もなく、チケットのもぎりもフィルムを回すのも、この前を行くターナー氏が一人で担っているのかもしれなかった。

「今宵上映致します作品は、倉庫を整理していた時に発見したものです。有名な作品では……いえ、失礼、〝あまり多く流通しなかった稀少な作品〟でしたので、私が拝見させていただいたのも今回が初めてでした。そういった経緯ですので残念ながら保存状態は決して良好ではなく、ブラッドフォード様のご期待に添えるかどうか分かりかねるのですが……」

「それは構わない。気にしないでくれ」


 彼らの背後を追いながら晶は考えていた。

 シリルが旧市街にあるこの映画館まで足を運んだのは、今話に上った映画フィルムがその理由であるようだった。ここ数年で映画も総天然色のものが増え、映像技術も格段に向上した。目的のフィルムは稀少価値のある過去のものらしいが、今も旧形態を維持するこの映画館だからこそ、そうしたものがまだ残っていたのかもしれなかった。

「それではごゆっくりどうぞ」

 一礼する支配人に見送られて劇場に足を踏み入れると、大きなスクリーンがまず目に入る。

 晶はシリルと離れた席に着こうとしたが、彼に隣に来るよう指示された。臙脂のビロードが張られた座席に着くと間もなく照明が落とされ、スクリーンにモノクロの映像が映し出される。

 晶は映画を観るのは今夜で二度目だった。一度目は母が結婚していた時、義父に連れられて三人で観に行った。彼らとの関係で悩んでいた時期でもあったので今ひとつ内容に集中できなかったが、それでも初めての映像体験に暫しの間心奪われたのは覚えている。

 今、目に映るものもその時の高揚を思い出させてくれた。スクリーンに映る映像は傷も多く、音も割れていたが主演女優はとても美しく、見る者を惹きつける魅力を持っていた。


「あれは私の母だ」

 その声が届いたのは映画も終盤の頃だった。

 発車間際の列車前での別れのシーン、美しい涙を流す彼女の表情が大映しになる。

 映画を観ている間、既視感を感じていた。

 その理由が彼と彼女の面差しが似ているせいだと、晶はようやく気づいていた。

「父と結婚する前、彼女は女優をしていた。大成はしなかったが」

 暗い劇場で相手の表情は窺えなかった。

 けれどもこれまで知らなかった彼の秘めた部分を垣間見た気がした。

 彼の母親は、彼が生まれた時に亡くなったと聞いていた。

 彼がどんな思いでこの映画を観ていたのか知る由もない。

 でもその横顔には抑えた感情があるようにも感じていた。それは誰かを思う心が彼にもあるのだと、そう信じたい気持ちがあるからかもしれなかった。

「……お母様の作品を集めているのですか?」

「そうだな。そうとも言える」

 その問いには隣の男が変わらぬ声で応える。

 映画はラストシーンを映し出し、エンドロールを流し始めている。

 主演女優の名は、マリエラ・スロワ。

 もうこの世にいない彼女の名は流れる川のように消えていった。


 映画が終演を迎えると、しばらくして照明が灯った。

 足音が響き、振り返ればリジーと彼に遅れてその背後を歩く支配人の姿があった。

「お待たせしました、ブラッドフォード様、これが約束の品です」

 支配人が低頭しながら差し出したのは円状の古びたブリキ缶だった。

 相手は何も言わずそれを受け取ると微か表情を変え、その表面を軽く撫でた。だが直後何を思ったか缶を床に投げ捨てる。

 落ちた衝撃で蓋が外れ、中に収められた彼女マリエラのフィルムが顕わになった。

「あっ、あの……ブラッドフォード様、一体何を……」

「リジー」

 支配人は戸惑いの声を上げるが歩み寄った男が主に手渡したものを見て、今度は驚愕の表情を顕す。

 白金の髪の男が手にしたのは銀色のライターだった。

 その指は無慈悲に着火装置を撥ね、生まれ出でた炎は缶の中へと投げ入れられた。


「ブ、ブラッドフォード様っ!」

 支配人の悲壮な叫びも虚しく、炎は瞬く間に缶の中身を焼き尽くした。

 周囲には煙と顔を顰めずにはいられない異臭が漂い、気づけばそこには焼け焦げた黒い塊があるだけだった。

「ブ……ブラッドフォード様……これは一体どういう……」

「これが最後の一本だった。彼女の姿を後世に残す訳にはいかない。これはあってはならないものだ」

 相手の問いにも男はただ淡々と返事を戻す。

 突然起きたこの出来事に晶は息を呑んでいた。今ここで同じ表情を浮かべる者だけがこの事態を予期していなかった。

 映画を長年愛し続ける男は自らの手を離れてしまったものでも、無惨としか言いようのないその末路を受け入れられないでいる。晶は人知れず感じた先程の思いが、暗い炎と共に葬られた気がしていた。


「これは謝礼だ」

 主の指示でリジーが鞄を差し出す。だが相手が無反応なのを見て、そのまま足元に放置する。恐らく大金が詰まっているであろうそれを一瞥することなく、立ち尽くす男は茫然とした表情を浮かべていた。

「では失礼する」

 二人の昏い男は背を向けてその場を立ち去った。

 晶は結局言葉を見つけられずに、先を行った二人の後を追った。

 扉の前で一度足を止めて振り返れば、その場で未だ肩を落とす支配人の姿がある。

 シリルは自分とは違う場所で生きている。

 シリルを理解することはきっと一生できない。

 より一層色を失った劇場の扉を晶は静かに閉じた。





 その部屋に灯りはなかった。

 窓から入り込む月の光だけがそこにあるものを朧気に照らしている。

 映画館から戻った後、晶はシリルの寝室に招かれていた。ここには灯りもなく、あるのは月の光と殺伐とした緊張だけだ。晶は張り詰めたこの場でただ黙って、椅子に座っていることしかできなかった。


「お前はどう思った。あの女は美しいか」

 窓際に立った男が徐に訊ねていた。

 月が彼の髪を照らし、碧い瞳が翳りを帯びながら輝いている。

 相手の声が答えを促していたが、晶は返答を見つけられずにいた。今夜の出来事がまだ尾を引いている。ガラスの破片を握らされているようなそんな感触が心を覆っていた。

「私の母、マリエラは美貌に恵まれたが、ただそれだけだった」

 何も応えずにいると相手の声が続く。

 感情がより消え去ったようにも聞こえるその声は暗闇で滔々と続いた。


「美しいが故に多くの機会に恵まれたが、努力を怠った彼女が得られたのはどれも記憶にも残らないクズ映画ばかりだった。しかしそんな境遇にも関わらず、彼女は自信家で上昇志向が強く、そして奔放だった。役者業に見切りをつけて十九才で父と結婚したが、居場所が映画界からこの狭い屋敷なってもその性質は変わることがなかった。彼女は屋敷内の誰とでも関係を持った。相手が男だろうと女だろうと構わず食い散らかした。その所業を思えば私も兄も、果たして本当に父の子かは不明だ。彼女は私を出産した時に死んだことになっているが、実は違う。祖父が母を殺した。母は義父である祖父とも関係を持っていた。祖父が母を手に掛けたのは、憎かったからか、許せなかったからか、愛していたからか理由は知らない。だが祖父が母を縊り殺した時に何を思っていたかなど、私にはどうでもいいことだ。彼女の存在は今夜で全て消えた。マリエラという女はこの世のもうどこにもいない」


 いつの間にか男が傍に歩み寄っていた。

 何も言えず晶は相手の姿を見上げていた。

「お前はどう思った。あの女は美しいか」

 再び同じことを問われていた。

 彼は〝彼女〟に似ていると晶は思った。

 白黒の映像では分からなかったが、髪の色も、瞳の色も、きっと二人は同じものを持っている。でも面差しだけでなく、二人にはとても似通った雰囲気があると感じていた。


「私は……」

「いや、やはり答えなくていい」

「……」

「私はもう眠る。だから寝室に誰かの存在があっては邪魔だ」

 突然そう告げた相手は背を向けて窓際に戻った。

 晶は無言でその場を離れると退室するために扉に向かった。

 部屋を出る前に一度振り返ろうとしたが、しなかった。振り返って見たその場所に、自分が窺い知れるものがあるとは思えなかった。

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