2.失望と新たな勇気

 屋敷に来て二週間が経とうとしていたが、晶の日々は変わらぬままだった。

 あの夜以降、どこにも浮上しない思いは沈む一途を辿り、身も心も本当にシリルの従順な秘書であるかのようにしか動かなかった。当然何も得られず、何かを考えることすら避けている。

 晶は今朝目覚めた時から動き方を忘れたように蹲っていたベッドから、ゆっくりと身を起こした。

 時刻は既に十時を回っている。今日は屋敷に来てから初めての休日を与えられていた。しかし淀む心は変わらず、でもこのままの状態でいる訳にもいかないことは分かっていた。緩慢にベッドを下りると簡単に身支度を整え、部屋を出る。裏口から屋敷外に出ると晶はその場に停められている黒いリムジンに歩み寄った。


「すみません……」

 軽く窓を叩くと車内の運転手が顔を上げる。昨晩シリルから休日であっても勝手な行動はせずに、外出する際はリムジンを使用するよう告げられていた。理由はこちらの行動を常に監視するためなのかもしれなかった。もしかしたら自分が思うより自らの立場は危ういものなのかもしれなかった。

「あの……すみません、今日はお願いします……」

「ああ、上から一応話は聞いてる。で、どこに行けばいいんだ?」

「あの……お願いがあります……」

「……何? お願いって」

「私が今から向かう場所は報告をしないでください……いえ、私に一時間だけ時間をください。必ず一時間で戻ってきます……あの……勝手なお願いですが……」


 この屋敷で何の意思もなく続けられる日々。その日々を自ら終わらせる必要があった。きっと自分は二年前と同じく何も得られはしない。それならばそのことを告げなければならない相手がいた。

 しかし彼女ミナとの関係を誰かに悟られる訳にはいかなかった。この懇願はこちらの都合でしかなく、言ってしまってからあり得ないお願いをしたと後悔が過ぎる。けれども向かい合う相手からは間を置かず返事が戻った。

「そっか、分かった……それじゃ、俺はどこに行けばいい?」

「えっ?」

「今から俺はお前の行きたい場所に向かえばいいんだろ? 送った後はどこか車を停められる場所で待ってる。それで、俺は一体どこに行けばいいんだ?」

「……あ、はい……あの、それなら最初の日と同じ場所で降ろしてください……その後はこの前の公園で待っててください……」

 晶は告げながらより深く後悔していた。自分の勝手な要求は通ったが、彼の立場を悪くしてしまったのは変わらない。彼の優しさにつけ込んだと思えば自らの狡さに嫌悪も増す。でもそうしているのは他の誰でもなく、自分でしかなかった。走り出した車の中で取り返せない後悔を再度味わうしかなかった。


「この辺でいいか?」

 しばらくして車は駅近くの路地で止まった。晶は礼を言って車を降りると、その場から走り去る車の姿が見えなくなるのを待って電話を取り出した。コール三回で出た相手に用件を告げ、待ち合わせの場所に向かう。カフェ・リアーナに到着した時には既に彼女はいつもの席に座って待っていた。

「できるならこうして会うのは避けたかったのだがな」

「すみません……」

「しかし会って話をしたかったのだろう?」

 見遣ったミナの表情は厳しかった。だが彼女の言う通りだった。このことは彼女に直接会って告げなければならなかった。


「すみません、コルトヴァさん。私にはもうできません……」

 晶はミナをまっすぐ見据えると告げていた。

 何度も意思を削られながらも、その度にどうにか思いを取り戻してきた。でもあの夜の出来事は全ての意思を失うに値していた。二年前のように勝手に逃げ出すことをしなかったのは自分なりの誠意のつもりもあったが、放棄した事実に変わりはない。自らの行動を正当化するつもりもなく、彼女にはただひたすらに謝罪することしかできなかった。

「自信がないんです……無責任なのは分かっています。けれどもうやれる気がしません……すみません……」

「……そうか、この結末は残念でしかないが、仕方がない、か……」

 彼女の表情に怒りはなかったが、落胆はある。

 自分はただの駒でしかない自覚はあるが、その駒が正しい働きをしなければ誰だって失望する。そのようにしか見られてなかったとしても、そう思わせてしまったことに心は沈んだ。

 店内の喧噪と相反する沈黙が窓際のテーブル席で続いた。ふとそれを破って呟きのような声が届いた。


「晶、実は先日この付近で爆発事故があった」

「え……? 爆発事故……?」

「爆発の原因はこの近辺のギャング団が製造していた自家製ドラッグだ。簡単に手に入れられる原料を使った素人仕事だったが、扱いに細心の注意を払わなくてはならないのはどうだろうと変わりない。だが管理意識が半端だったんだろうな。工場代わりの空き家は吹き飛んで、死人も出た。無論この件は君が現在関わっていることと直接関係はない。しかしこの出来事も起きなかった。犠牲者は一人、家屋近くで遊んでいた十才の女の子だ。不幸な事故だった」

 届いた最後の言葉に晶は顔を上げた。

 十才の女の子。自分が知る隣の部屋の少女も同じ歳だった。

「コルトヴァさん、その爆発があったのはどの辺りですか……?」

「ジル通りの十三番地だ。多分君のアパートにも近い」

「亡くなった女の子の名は……」

「いいや、だが訊けば分かる。調べるか?」

「……いえ、それは……」

 問いながら鼓動が速くなるのを感じたが、出たのは否定の言葉だった。

 少女の名を確かめたい思いもあったが、それを知ることが怖かった。

 返す言葉もなく、無言でいるとミナは静かに席を立った。そのまま場を離れようとしたが、彼女は再び足を止めていた。


「晶、最後にもう一度言う。もし考えが変わらないというなら私に電話をくれ。だがそうでないのなら……私は君がまだやれるのだと判断する」

 そう言い残した彼女が去り、晶はしばらくその場に留まっていたが思い立ったように席を立った。店を出て、足を公園ではなくジル通りの方へと向ける。

 ミナが言っていた民家はすぐに見つかった。通りの外れに建つ古い家屋は骨組みを僅か残しただけの無惨な姿を晒していた。周囲にはまだ立ち入り禁止の規制線が張られ、焦げた臭いと異様な臭いが立ちこめている。

 考えが変わらないのなら、ミナに電話をしなければならなかった。そうすれば再び彼女は現れ、最後の判断を下す。その後自分はどうなるのだろうか。収監されるにしても、たとえまた運よく陽の下を歩けたとしても、心にはずっと滞るものを残したままだ。


 強い風が吹き抜け、今にも崩れ落ちそうな建物を揺らした。

 彼女はこんな自分にまだ望みをかけているのだろうかと、晶はミナの後ろ姿を思い出す。

 彼女の思いに応じたい気持ちは微かだが心の底に残存している。でも一度消えた意思は後戻りをしようとせず、それに応える自信も既になかった。

「明日またねー、リリアちゃん」

「うん、また明日」

 背後でその声が響いていた。

 振り返れば、通りの向こうに無惨な家屋とは真逆の元気な少女達の姿がある。

 目に映ったその姿に晶は全身の力が抜けるような安堵を感じていた。

 彼女リリアは無事だった。そのことに深い安堵を覚えるが、同時に複雑な感情も呼んでいた。

 この場で亡くなった少女は確実にいる。それが自分が知る少女でなかったというだけで、ここで短い生涯を散らした少女も、その悲劇的な死に悲嘆に暮れる人も必ずいる。

 直接関係はないと、彼女は言った。だがそれは彼女の本心ではないはずだ。

 晶は焼け落ちた建物に再び目を移した。

 惨劇の残滓が風に攫われ、辺りに拡散されようとしている。

 晶はまだ残る意思が自らの心にあることを信じて、その場を後にした。



******



 その夜、晶はまた眠れずに川辺にいた。

 強い川の音は怖れも抱かせるが、心落ち着くものも感じさせる。怖れと安堵が同居したその感情が酷く捻くれているようにも感じて、晶は一人笑った。

 あの後待ち合わせの公園に向かったが、彼とは顔を合わせても互いに何も言わなかった。

 再会してからは言葉はなくとも、変わらぬ思いがあるように感じていた。でもその思いはまぼろしだったのかもしれない。そうであってほしい願いがそれを自分に見させていたのかもしれなかった。


 枯葉を踏む音が背後で響いた。

 そこにいるのが誰か分かったが、晶は振り返らなかった。

 もうどんな顔をして彼を見ればいいのか分からなかった。

 六年前のあの頃ならただの隣人同士だった。隣室の子供、隣室の気のいい青年。それでよかった。シンプルでしかないその関係性ならそこにある感情もシンプルでしかなく、たとえ憧れ以上の感情があったとしても許される類のものだった。

 しかし今は違っていた。

 この屋敷で秘密を探る自分は、全てを秘密にしなくてはならない。

 それに自分が立場を危うくしようとしている相手は彼の主で、それと同様に彼の立場をも危うくするかもしれない。

 気にかけてくれているこの行為に対しても同じだった。いつまでも甘えていては駄目だった。無意識に彼の優しさにつけ込もうとしている自分は、筋の通らないことばかりしているわがままな子供だった。


 歩み寄った影は何も言わずに傍に立っている。

 数日前と同じく、それでも存在を感じられる場所に立っている。

 森からは梟の声が届く。

 川は変わらず轟々と流れている。

 相手が近づく気配がした。

 晶はその場で身を硬くして、動けなかった。

 優しくなどしてほしくなかった。

 ミナの任務を続行し、もう絶対逃げないと決めた自分は彼とは敵対することになる。

 彼への思いが確実に存在していても、これ以上近づいてはいけなかった。


「なぁ」

 立ち去ろうとしたが、その声に呼び止められていた。

 歩み寄る気配に何も言葉を発せられない。

 鼓動が強く、速くなっていく。

 足音が間近まで近づいた時、晶は思わず声を上げていた。

「私っ……」

「いいから、何も言うな」

 伸ばされた手が優しく頭を抱きかかえていた。

 そのまま引き寄せられ、胸元に抱き寄せられる。

 密着した身体の心地よさに晶は目を閉じた。

 相手の手が髪を優しく撫でる。

 愛おしむようなその仕草に身体が熱くなる。

 言葉はなかったが、必要ないようにも感じていた。

 激しかった鼓動が収まる頃には相手の手が離れ、身体も離れていく。

 彼の姿はじきに森の闇に見えなくなる。

 森からは梟の声が届く。

 川は変わらず轟々と流れている。

 晶は相手の余韻が消え去るまで、川辺で立ち尽くしていた。

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