3.深い闇と暗い水

1.リジー・ヘイズの回顧

 リジー・ヘイズは先程から身動ぎもせずに窓の傍に立っていた。

「あの娘……」

 彼がそう呼ぶ少女が、この屋敷に来て既に十日以上が過ぎた。

 その横顔には深い憂慮が見え隠れする。この数日、彼の間近に存在し続ける腫瘍のようなそれがその表情を形作らせていた。


 彼が日々を生きる上で重要としているのは金や名誉でも、ましてや己自身でもなく、主の身を守ること、それだけだった。だがこの数日、得体の知れない何かが心奥深くで渦巻き続けている。その理由は分かっていた。自らの本能が危険だと訴え続けている。今後もし主の身に危機が迫る可能性があるというなら、どんな手段を用いてでもそれを排除するつもりだった。


 リジーがこの屋敷に足を踏み入れたのは十五年前の十九才の時だった。

 十才の時に内戦が続く自国を逃れ、両親と二つ上の姉と国境を越えた。しかし後一歩のところで越境を取り締まる国境警備隊に見つかり、両親と姉は即日送還された。一人逃げ切ったものの見知らぬ異国に取り残され、路頭に迷う寸前の彼に手を差し伸べたのは、同じ境遇を持つ同郷の者達で構成されたコミュニティだった。

 彼らに拾われたリジーは幸運であり不運でもあった。食と住処を約束されたのは幸運と呼んでもよかったが、犯罪を生活の糧とする彼らと運命を共にしなければならなくなったのは、不運と呼べるものなのかもしれなかった。けれど頼る者もいない子供がこの街で生きていくには他の方法もなく、そうすることで幾分は人としての扱いを受けながら日々を過ごしていけるはずだった。


 元々体格にも恵まれ、臨機応変に行動する術も幼少の頃から身についていた。十才で自らの運命を受け入れたリジーは、その後も手にすべきものは自らの力で引き寄せてきた。忠誠心と非情さを兼ね備えたその働きはじきにコミュニティの上層部の耳にも入り、リジーは十九才になったのを機に彼らのつてで、この街の有力者であるブラッドフォード家に仕えることになった。


『お前が新しいボディガードか』

 十五年前のあの日、階段の上部からまだ幼さの残る声でそう訊ねた〝彼〟の姿をリジーは今でも思い出す。

 届いた声には、背伸びした見栄も安い嘲笑もなかった。

 そこにいたのは十才の少年だったが、相手が身に纏わせていたのは周囲を圧倒する気配だった。

『私はお前に訊いているんだ』

 気づけば少年を見上げたまま、知らず呆けていた。彼のために自分は身を粉にして一心に働かなければならない。目前の姿に跪くような思いでリジーはただそれだけを強く感じた。

『そうです。これからは私が片時も離れずあなたを守ります』

 恐れるものなど何もなくなっていた自らの声が震えるのリジーは聞いていた。

 これまでは故郷や離ればなれになった家族のことを事あるごとに思い出していた。でもこの瞬間それは必要のないものとなっていた。これまでの人生は自分がここに辿り着くために存在していた。彼とここで出会うことこそが自らの人生の意味だったと、十九才のリジーはそう固く信じた。


 十五年経った今現在も、あの時の選択は間違いではなかったと思っている。

 己の主は足元など見ない。背後も見ない。それは全て主の信頼をこの身に受ける自分の仕事だとリジーは思っていた。だからこそあの少女、晶・暗部から片時も目を離すことなどできなかった。

 彼女を初めて見たのは二年半前。

 十代半ばと思われる少女は印象的な瞳をしていた。深い闇を思わせる瞳に硬質な表情。整った顔立ちをしていたが、何かを強く主張するほどの熱はない。我こそはと自らの境遇に活路を見出そうと顕示欲を示す他の少年少女達に埋もれるようで、埋もれていない。気づけば目で追ってしまっている、そんな少女だった。

 だから何を見るにしてもただそこにあるものを瞳に映している主が、彼女を異なる目で見ていると気づいたのはすぐだった。他の者に対するのと同じく、彼女にも感情の痛みしか与えていない。しかし彼女に触れる手には微量の熱が存在していた。そのことに気づくのにも時間はかからなかった。


 自分の人生は主が全てであり、この命の続く限りそれは変わらない。

 一度は姿を消したあの少女が一体何の目的を持って再び現れたのか、まだ分からない。だが主の瞳はあの時と同じように熱を帯び始めている。

 彼の盾である自分はこの現状から決して目を離さず、もしそれが脅威であると分かれば排除する。僅かでも主に危機をもたらそうとするなら、それは不要な種子だった。誰であろうと芽を出す前に全てを摘み取らなければならなかった。


「あの時……」

 リジーはふと、数日前の出来事を思い返していた。

 予定の会合が直前で取りやめになったあの日、屋敷に戻り、主の命で書斎に向かっていた時に起きたあるやり取りが、未だ蟠りとなる痼りを残していた。

『レビットさんが到着済みの郵便物の件で話があるそうですよ』

 廊下で自分を呼び止め、そのように告げたのは数ヶ月前に自らが雇った男だった。

 確かに執事であるレビットの用件は存在し、その言葉に間違いはなかった。しかし呼び止められたあの時、場を離れることになり、を確かめられなくなった。

 あの時、主の書斎に微かな人の気配を感じた。

 用件を済ませて急いで戻ったが既に気配は消え、誰かがいた痕跡もなかった。だが数日経った今でも、あの違和感にもっと踏み込むべきだったと後悔していた。

 書斎には誰かがいたのか、いたのならそれは誰か。

 もしかしたらあの疑うべき相手だったのかもしれない。蟠りと後悔は今も消えず、もしそうだったなら望む機会をみすみす見逃した自分の失態には腹立たしさだけが残る。


「あの時、彼さえ来なければ……」

 男の経歴は通常通り自ら調査を行った。

 優秀な軍人だったが暴力行為による不名誉除隊。その後は絵に描いたような転落人生を辿った。誇れるものなどなかったが、軍仕込みの口の堅さと序列に対する考え方が目を留めるきっかけになった。そして体格のよさと飄々とした中に時折垣間見せる爆発的な暴力性、それが決め手となった。

 彼が彼女に与する理由は思いつかない。もし何らかの思惑を持ったあの少女にたらし込まれていたとしても、折角得た職とそれとを天秤にかけて、傾かせるほどのものとは思えない。


「だが真相がどうだろうと……警戒を怠らなければどうということもない……」

 リジーは呟くと、窓の外に広がる光景を目に映した。

 花が咲き誇る美しい庭園、静謐で荘厳な屋敷。

 ここにはかつて主の父と兄もいた。

 しかし彼らはもうここにいない。この世にもいない。

 主の足枷となるものは全て排除しなくてはならない。それが主の命であっても、そうでなくても。

 リジーは自らが定めた強固なその使命に従い、これからも生きていくつもりだった。

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