9.壊れる心

 本日は給仕や接客を担う臨時の使用人が増員され、屋敷内はいつになくざわついていた。晶が屋敷に戻った頃には早朝から始まった準備も完了し、来客も訪れ始めていた。

 いつもは静かな屋敷も今日は賑やかだった。

 会場となる大広間はきらびやかさを増し、今夜のために掲げられた絵画、並べられた美術品、磨き上げられたシャンデリア、部屋を彩る全てが目を瞠るほど豪華だった。しかし華美であることを極力抑えたこの屋敷の他の部屋とは異なるその様式は、悪趣味とまでは言わないがそれに近く、ここだけ切り取られた別世界のようだった。


「晶」

 招かれた人々が談笑する様子を壁際で眺めていた晶はその声に目を向けた。

 際立った異彩を放つ男がゆっくりと近づいてくる。

 白金の髪と碧い瞳がいつも以上に映えている。漆黒のタキシードを纏ったシリルがこの場の王の如く歩み寄っていた。

「すみません、遅くなりました」

「いいや、構わない。それよりもよく似合っている」

 言い様シリルは手を取って、軽く口づけをした。それには途端、晶の胸に複雑な思いが過ぎった。

「どうした?」

「いえ……」

 手の甲が微かに強張ったことに相手は気づいたかもしれないと晶は思った。公園で起きたことは心の中にしまっておきたい大切な出来事だった。他の誰かに触れられたぐらいでそれは上書きなどされないが、心のもっと奥にしまい込むことでより守られるはずだった。


「いえ、何でもありません」

 晶は相手に笑顔を返した。シリルの前に出れば誰しもちっぽけな存在になってしまうが、大事なものを守りたい思いは強くある。

 パーティが始まりを迎えると、大広間の賑やかさは増した。

 市長や市議会議員、それに街の有力者に有名俳優。次々訪れる来客はどの人も晶が初めて直接顔を見る人ばかりだった。

 だがその中にいてもシリルは誰より人の目を惹いた。どんな地位のある人間やどんな見目麗しい人でも、彼の前ではその存在を霞ませていた。


 晶はシリルの背後に控え、来客の間を回る彼の言葉を聞きながら時に笑みを浮かべていたが、次第に皆が何を言っているのか分からなくなっていた。その理由ばすぐに思いついた。先程口にした飲み物が強い酒だと後から知ったが、少し遅かった。

 目眩に耐えながら見上げれば、大勢の話し声がぐるぐると回りながら落ちてくるようにも感じる。周囲の人達の姿が目まぐるしく視界に入り、常に意思を強く保っていないと意識を攫われそうになる。酒には強くなかった。仕事柄口にする機会はあっても最小限度に留めていた。でも気分が優れないのはそれだけではなく、不慣れなこの場の雰囲気にも酔わされているのかもしれなかった。


「周りから私達はどのように見えるだろう」

 気づけばシリルに抱き留められていた。

 緩やかな音楽に合わせて彼の胸元に寄り添う自分の姿に晶は気づく。当然ダンスの経験などなく、覚束ない足取りで相手に身を任せているだけだった。

「彼らの目に映る君は少年か、それとも男装の少女か」

 鼓膜にはシリルの声が輪郭を歪めて響く。

 浮遊する感覚を晶は夢うつつに思うが、すぐ傍にあるシリルの瞳にこれが現実であると知らされる。霞む視界で碧い瞳を見返せば、答えを促すように腰に回された手に力が入った。


「こんなのは……」

「こんなのは間違っている?」

「……」

「晶、本当は皆、心の底で羨んでいる。権力者と少年、権力者と男装の少女。この世界の破綻の一端にも見える私達の姿を彼らは見たいと思いながらも、ただ直視できずにいる」

 身体が重く、今すぐにでも目を閉じて横になりたかった。

 間近で響く男の言葉が呪文のように届く。身体がふらつくとより強く胸元に抱き留められ、耳元に唇を寄せられた。

「見ろ。ここにいる人間はこの広間と一緒だ。周囲と同じようにただ自らを飾り立て、中身もない。でも私は彼らを愛している。愚かなことはそれだけで愛おしい。まるで彼らは全ての破滅を待っているようだ。私にはそう見える」

「……私には、分かりません……」

「そうか? 私には理解しているように見える」


 頬に指が触れ、顔を傾けられる。

 顔が近づき、唇が重なった。

 晶はその感触に混乱した。

 欲したものでもないのにそれを待っていたような思いに襲われる。そう思うのは今の自分が正確な判断ができていないからだと、自らに強く言い聞かせた。

「人前です……」

「だからだ。皆の目を見ろ」

 抗議を口にしたが、それは無駄なことでしかない。

 もう一度唇が重ねられ、また意識が混濁する。

 見ろと言われても確認できない周囲の気配に身が熱くなる。自分が今何をすべきかも分からなくなっていった。


 再び気がつくと辺りは静かだった。

 音楽も大勢の人の気配もない。

 部屋は暗く、晶はそこが柔らかなベッドの上だと知る。

 身動ぎしてここを離れなくてはと思っても、身体がいうことを利かない。重い疲労と、泥のような眠気がそれをさせない。あれからどれだけ経ったかも分からず、思い出せない時間の経過に朦朧とする。

 耳には微かな物音が届くが、何の音か分からない。眠気に抗いながらどうにか瞼を開けてその方を見る。

 月明かりに人影が見えた。

 部屋の隅、アンティークキャビネットの上部、人影は壁の鏡を外すとその場所に隠されていた扉を開く。

 ……あれは、金庫……?

 闇で動く手はそこから帳簿と思しきものを取り出し、何かを書き連ねると戻す。静かに扉を閉めたその手には小さな何かが握られていた。

 月の光に浮かび上がったそれには覚えがあった。

 彼の書斎、引き出しの中。古びた辞書の中に隠されていたあの……。


「目が覚めたか」

 届いた声に晶は身を硬くした。

 相手は歩み寄るとベッドに腰掛けてこちらを見下ろす。

 晶はその気配を感じながらも、今ほど見たものを幾度も過ぎらせていた。

 あれが自分が得るべきものなのかもしれなかった。それを手に入れるためにはもう一度書斎に行ってあの鍵を……。

「晶」

 しかしその思考を遮るように呼びかけが届く。

 今更のように自分を見下ろせば上着とネクタイは外され、シャツのボタンも外されている。この状況には羞恥しか感じなかったが、こちらを窺う相手の表情には何も見えない。欲望さえ見えない昏い相貌からは、淡々と告げる言葉だけが落ちていた。

「再会したあの日、お前が変わっていないと言ったが、やはり変わった。従順さだけではない。二年前よりも、私の心を落ち着かなくさせる」


 片膝をついた相手の重さにベッドが沈む。

 窓からの月の光が白金の髪を照らしていた。

 感情が様々なもので溢れて晶は混乱する。

 慣れることなどないこの状況には体温が上昇し、息が上がった。

 逃れようとする感情と、従わなくてはならないという思いが繰り返し過ぎる。自分の立場を思えば従わなくてはならない。でもこの状況を呑み込んだ先に自分が望んだものが本当にあるのだろうか。それを思えば思わず声が零れた。

「い……」

「嫌?」

 発した声に相手が被せて問う。

 見上げた場所には美しい男がいる。だがそこにいる相手は捕食者であり、強奪者だった。

 刃向かうことは許されない。自分に課せられた任が存在せずともそれは変わらない。

 月の光さえ我がものとするその姿は美しいと思うと同時に、怖ろしい。

 瞳は閉じれず、伏せることもできなかった。けれども扉をノックする音がその時届いた。


「晶、残念だが、今夜はここで終わりのようだ」

 名残も残さず離れていく気配に晶は息を吐き、重い身を起こすと緩慢な動きでベッドを下りた。

 弄ばれた感情は残るが、まだ震える指でできるだけ急いてボタンをかけ、傍の椅子の背もたれに掛けてあった上着を手に取る。ふらつく足で寝室の扉を開けるが、そこにいた二人分の人影を目にして、息を呑まずにはいられなかった。

「小娘、終わったのなら早く部屋に戻れ」

 投げられたのはリジーの冷たい声だった。

 しかしそれよりもその場にあるもう一つの人影に晶は心を攫われていた。彼は目を逸らすとこちらを見ることもない。

 晶は二人がずっとその場にいたことを知った。護衛のためだろうが、でもその理由などどうでもよかった。乱れた髪、皺の入ったシャツ。何事もなかったとしても、自分にとっては何も変わらない。

「失礼します……」

 下を向いたまま震える声でそう言うのが精一杯だった。

 部屋に向かう覚束ない足はいつしか駆けていた。

『壊れる寸前みたくて』

 彼女の言葉が蘇る。

 寸前じゃない、もう壊れてしまいそうだ。

 暗く続く長い廊下を晶は一度も振り返らなかった。

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