8.アイスクリームと公園

 屋敷に来て十日目、晶はその日の午後、ディディの店にいた。

 隣国の難民救済基金を募るパーティ。今夜行われるそれに同席する準備だった。


「いやーん、晶ちゃん、いらっしゃーい」

 前回と同じようにディディに迎えられ、なぜか再び胸を触られた。その後は店の全てのサービスを大盤振る舞いされるような待遇を受けた。

「あの……何だか、すみません……」

 髪に櫛を入れる鏡越しのディディに晶は呟いていた。街の一等地にある彼女の店には他にも多くの客がいた。既に数時間、自分にかかりきりになっている彼女には申し訳ない思いが過ぎる。でもそう思うことすら分不相応な気がしていた。

「えー、すみませんって、なにがー?」

「……私、この店に来られるような器じゃないです。だからディディさんにこんな……」

「えーっと、器? 晶ちゃん、なに言ってんの、それー?」


 しかし彼女からは気楽な返事が戻る。鏡の中の彼女は美しい顔を笑いで崩すと、その白く長い指で器用に髪を結い上げた。

「あのさぁ、器とかなんだとか言われてもあたし、そーゆーのよく分かんないし、どーだっていいんだよねー。あたしはさー、お金さえ貰えればいいんだよ。それさえあれば誰だってお客様だからねー。大体この街にさぁ、誰にでも胸を張れる清廉潔白な人間なんているー? 見たことないよ。でもさー、そんなこともどーだっていい。ないものを求めるよりそこにあるものを利用して楽しんだ方が人生マシでしょー? あたしは手に届くものならどんなものだって獲っちゃうよー、って、あれー? えっとー、何の話してたんだっけー?」


 笑顔の彼女が鏡越しに問い返してくる。

 その表情を見ながら晶は自分の言葉が余計なものだったと思った。自分の発言は結局自分のためでしかない。彼女は彼女なりの信念を持ってこの仕事をしている。それを揺るがすこともないこちらの考えなど、彼女にとって必要のないものだった。

「でもね、あたしは晶ちゃんの手入れをしてると楽しいよ」

「そ、そうですか?」

「うん。壊れる寸前の何かみたくて」

 鏡の中では美貌の女主人が蠱惑的に微笑んでいる。

 相反するものが同居することもある。晶はその菫色の瞳に初めてこれまでと違う感情を覚えた。


「あの……本当にこれでいいんですか?」

「いーのよぉ、シリルの希望よ」

 彼女の見立てた服に着替えた後、再度鏡の前に立った晶は戸惑っていた。

 鏡の中の自分は黒の三つ揃いのスーツを着ている。

 元々自分用に作られたものなのか身体には合っているが、男性物であるそれには気恥ずかしさのような違和感が残る。

 髪はいつも通りに頭の高い場所で結い、化粧も黒を基調とし、華やかさより落ち着きを優先させているが、その感触は変わらない。身長が標準よりあることと、その見た目のせいで性別不詳に見られることはままあるが、よりそれを際立たせ、且つそう見せなくもされているようなこの姿は何かどこかが全てアンバランスだった。

「変わり者のあの王様はこーゆーのが好きなのよ。そんなところは昔から変わってない」


 最後に懐古の呟きを零した女主人と連れ立って店の外に出た晶は、彼女に見送られながら車に乗り込んだ。夕暮れの街を車が走り出し、彼女の姿が車窓から見えなくなっても今日は運転席から届く言葉もなかった。乗り降りの時に何度か横顔は見たが、今日は一度も声も聞いていない。隔てる仕切りもずっと閉じられたままだった。

 十番街を離れた車はゆっくり車道を走っている。でもその行き先が屋敷ではなく、別の場所に向かっていると気づいたのは、それから少し経ってからのことだった。

 車は街の中心地の方に進んでいる。窓から見えるのは市庁舎や主要な企業が建ち並ぶ通りで、その先には広大な公園がある。森と大きな湖のあるその公園は歴史と豊かな緑を感じさせる街の憩いの場所だった。

 車は隣接する駐車場に停車するとエンジンを止める。無言で車を降りた運転手はそのまま公園に歩み入ると姿を消してしまった。


「えっと……」

 一人残された晶はどうすればいいのか分からず困惑していた。しかし開けた窓から心地よい風が流れ込んでくるのを感じて、暫しの間癒される。考えてみればこのような場所にいるのは久しぶりのことだった。陽は傾き始めていたが、芝生の上で談笑する人、ベンチで読書する人、遊歩道を散策する人、遠くに見える彼らは自分達の時間を自由に過ごしている。

 晶は車を降りると、どこまでも続く夕刻の空を見上げた。ここを離れていいものか少し迷ったが、近くにひと気のないベンチを見つけて腰を下ろす。それぞれの時間を愉しむ様々な人達の姿をその場所から眺めていた。

「ほら」

 不意にその声が届き、目の前に何かが差し出されていた。

「疲れた顔してる。これ、好きだったろ」

 相手が差し出したのはチョコミントのアイスクリームだった。

 あの頃、家の近くには時折アイスクリームの移動屋台が出ていた。チョコミントのアイスはその頃彼に幾度か奢ってもらった思い出の品だった。

「あ、ありがとう……」

「だけど悪いけど十分間だけな。俺は車で待ってる」

 相手からアイスクリームを受け取りながら、晶は微かな落胆を感じていた。

 舞い上がった気持ちが急激に足元へと落下していく。でも本来ならきっとこれだけで充分なはずだった。素っ気ないが彼はこんな優しさを見せてくれた。

 けれど知らず腕は動いていた。晶は去ろうとする彼の上着の裾を伸ばした手で掴み取っていた。


「ん?」

「あの……十分だけなら、一緒にいてほしい……」

 振り返った相手の顔を晶は見上げた。

 その表情には戸惑いがある。自分でもやや大胆な言葉を言ってしまったと顔が赤くなるのを感じるが、口から出てしまった言葉はもう取り消せない。

 しかし次第に気恥ずかしさより後悔の方が膨れ上がっていた。これではまるでわがままな子供だった。ミナの忠告も守らず、一時の思いで行動してしまった。それには焦燥を覚え、今後にも不安を覚えるが、同時に相手に一歩近づいたそのことにほんの僅か安堵にも似たものを感じていた。


「これ、使えよ」

「えっ……?」

「まったく、本番前に汚したら意味がない」

 相手がポケットから取り出したのは、雑に折りたたまれた青色のハンカチだった。見下ろすと手にしたアイスクリームが溶け始めている。慌てて溶けた部分を口にすると、微かな笑い声が届いた。

「昔、そういう子供をよく見たな」

「……こんなので汚したりしない、もうそんなに子供じゃない……」

「そうかぁ? 今のは結構危なかったよ」

 彼は晶の膝の上にハンカチを置くと、言いながらベンチの端に腰を下ろす。

 距離感は相変わらずあるが、その砕けた会話にはあの頃に戻ったような気分を晶は味わっていた。

 でもふと隣を窺うと、その顔には後悔のようなものが垣間見える。

 互いの立場を思えばこの時間は決して望ましいものではなかった。それに気づけば続く言葉も失われ、短すぎる十分間は無言のまま終わりを迎えていた。


「行こうか」

 隣から呼びかけが届くが、晶は腰を上げることができなかった。

 このまま屋敷に戻ればまたあの緊張感が続くが、ここに居続ければそれからは逃れられる。

 しかしそれは許されなかった。それにそのことを一番許さないのは自分だった。けれど一旦欲しいものに触れてしまった心は弱い部分を剥き出しにしてしまった。自分が望む自分であるために立ち上がりたいが、あともう少しの勇気が必要だった。


「嫌だったら振り払っていい」

 晶は突然の感触に顔を上げた。

 彼の手は一度強引に右手を掴み取るが、すぐに柔らかく握り直すと晶が立ち上がるのを促しながら前に進むのを先導する。

「嫌じゃないか?」

 届いた言葉に返事をするように、晶は無言で首を横に振った。

 握られた手は昔と同じで温かかった。

 けれども窺い見た横顔にはその時にはなかった困惑や戸惑いがある。だがそれは当然だった。彼の温かさは変わらないが、立場は六年前と違う。

 車までのその短い距離を進む僅かな間、晶は握られた手を微かに握り返した。

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