7.書斎の秘密
相手の動向を見るだけでなく、自ら行動しなければ何も得られないのではないだろうか。
屋敷に来て一週間が経った朝、晶はそう思っていた。
秘書を務めながらシリルに付き添っても未だ何も掴めず、その予兆すら感じない。彼が優秀な経営者であるという事実を確認する日々が続くだけだった。でも自分はミナのような捜査官でもなく、ただのバーテンダーでしかない。そんな自分が目標達成に至るには慎重であることと、辛抱強くあることが求められるのは分かっていた。
しかしこの屋敷にいる時間が長くなれば長くなるほど、自分の中の何かを喰らい尽くされるような不安を感じていた。焦りは禁物と分かっていても逸る心を抑えられず、けれど望んだ転機は存外早く訪れていた。
「本日はリジーと二人で出かける。だから今日は休日だと思ってくれればいい」
その朝、晶はシリルにそう告げられていた。それを言葉通りに受け取るなら今日は彼に付き添う必要はなく、自由に動ける時間を与えられたことになる。限定的ではあるが、密かな企みを実行する貴重な時間が確保できたのは間違いなかった。
「うれしいか?」
「えっ? いえ……」
「もし出かけるならディディの店をお勧めする。その他は勧めない」
無表情を突き通したつもりだったが思いが滲んでしまったのか、勝手な行動は認めないと釘を刺す言葉がかけられる。デスク傍のリジーからは変わらぬ冷たい視線が向けられ、晶は曖昧な笑みでその場を誤魔化すしかなかった。
「晶、見送りを頼む」
「分かりました」
部屋を出る二人に付いて晶はエントランスに向かった。
玄関前にはリムジンではなく、黒いセダンが停まっている。運転席に向かうリジーの姿を見取れば、二人で出かけると言ったその言葉がそのままの意味であるのを知った。
「行ってくる。いい子にな」
走り出した車を他の使用人達と屋敷前で見送る。
車が遠くなり、完全に見えなくなる光景を捉えながら晶は次の行動を考えていた。
シリルはほぼ全ての業務をこの屋敷で行っている。時に他事業所に赴くことはあっても、必要書類や資料はそのほとんどを手元に置いていた。
それならば裏の稼業に関するものも、この家のどこかにあるのではないか。
無論断定はできないが、晶には一つ思い当たる場所があった。
それはシリルの個人書斎。毎朝向かう仕事部屋とは別に、彼の寝室と隣接したその部屋はリジーに何度も言い渡されるほど固く立ち入りを禁止されていた。主の私的部屋であることを思えばそれは決しておかしなことではないが、秘密を隠す場所としては群を抜いて有力であるのは確かだった。
傍の人達がそれぞれの持ち場に戻っていく姿を確認し終えると、晶は早速目的の場所に足を向けた。シリルの書斎は屋敷の南東に位置し、これまでは日中に幾度か前を通り過ぎたことぐらいしかない。
書斎に着くと、晶は辺りを見回した。今は人の姿のない見通しのいい長い廊下は、右も見ても左を見ても身を隠す場所もない。代わりに近くの窓からは屋敷の前庭の様子が窺える。〝彼らが〟こんなすぐに戻ってくるとは思えなかったが、こまめに周囲を確認することは怠ってはならないはずだった。
見上げた扉には精緻なレリーフが施されていた。その美しさに見惚れている時に晶はようやく扉の施錠の可能性に気づいていた。主の個人部屋に鍵が掛けられているのは当たり前のことで、浅知恵で先走った自分の浅薄さには落胆さえ覚える。半ば諦めながらドアノブに触れてみるが、それは何の抵抗もなくかちりと音を立てた。
「開いてる……?」
押した扉はゆっくりと開いていく。
晶はもう一度周囲の確認をして室内に入ろうとしたが、一度動きを止めた。
本当にこれでいいのか躊躇を覚える。これは自分を誘い込むための罠ではないかと、そんな疑念も過ぎる。しかしここで足を止めてしまえば、何も掴むことができない。この漠然とした怖れのある場所で、これからも終わらない緊張を感じ続けなくてはならない。
晶は意を決すると部屋に足を踏み入れた。
室内はカーテンも引かれておらず、明るかった。中央に置かれた年代物のデスクを取り囲むようにいくつかの本棚が並んでいる。本は外国語のものも多くあったが、それらのどれにも何度も読み返された形跡が残されていた。
デスクの引き出しを見てみるとそこにも鍵が掛かっていなかった。中には筆記用具、未使用の手帳、読みかけの本や古い辞書が整然と並ぶが、書類のようなものは何もない。それでも順に確かめて最後に辞書を手に取ると、微かな物音が耳に届いた。
「これ、もしかして中に……」
辞書の表紙を開くと紙の真ん中がくり抜かれ、そこに小さな鍵が隠してあった。鍵は辞書と同じく酷く古びていた。取り出してどこの鍵かと周囲の家具を確かめてみたが、該当する鍵穴は見つからない。
鍵の真相も分からず、得られた手がかりもない。時間だけが経過していくことに焦りを感じながら再度本棚を見ようとした時に、部屋の外で響く話し声が聞こえた。
その声は廊下の向こうからこちらに近づいてくる。晶は急いで鍵を元に戻すと、窓から外を窺った。すると先程見送ったばかりの黒いセダンが停まっている。車内に既に人影はなく、廊下で響く話し声がリジーのものだと分かれば、焦りは増大していった。
なぜ戻ってきたのか、なぜこちらに向かってきているのか。そんな疑問が次々過ぎるが考えている余裕はなかった。今の状況はかなり危機的だった。もし彼がこの部屋にやって来たら隠れる場所もない。拙い立場に陥るのは確実だった。
「……でも、それも…………です」
途切れ途切れな会話がすぐ傍まで近づいていた。どうやら彼は携帯式電話で誰かと話しているらしい。
「ヘイズさん」
その時、新たな声が廊下に響いた。
聞き覚えのあるその声には再度心臓が大きく撥ねた。
「何だ?」
「レビットさんが到着済みの郵便物の件で話があるそうですよ」
「それは急ぎか?」
「至急だそうです」
「俺の今のこの仕事よりもか」
「恐らく」
深い溜息の後に、廊下を戻っていく足音がした。
間もなくもう一つの足音も遠離っていく。
晶は呼吸も忘れて扉の傍で固まっていたが、廊下に誰もいないことを悟るとその場を離れた。周囲を警戒しながら一旦屋敷の外に出て庭園を横切ると、再び裏口から入る。小走りでエントランスに向かうと、そこに立つ主の元に何事もなかったように歩み寄った。
「どうされましたか?」
「ああ、些細な行き違いがあったようだ。今日の外出はなくなった」
「そうですか……」
「残念か?」
「えっ?」
「一瞬、そんな表情が見えた」
そのような顔をしたつもりはなかったがそう見えたのだろうか。だがそう思う間もなく、相手に素早く髪を鷲掴まれる。急激に頭部が背後に揺れ、上から顔を覗き込まれていた。
「その表情も悪くない」
迫る唇が言葉を発し、全てを拘束する。
晶は何も言えなかった。瞳の奥まで覗き込まれ、その場所に隠し通しているものまで見透かされているようだった。
「部屋に戻る。後で紅茶を届けてくれ」
「……はい」
相手の手と身体が離れるが、何かを奪われてしまったように足元がふらつく。終わらない緊張が漂い、どこまでも深く沈んでいく思いがした。
虚ろな視線を外に移せば、窓の傍に立つ人影と目が合う。しかし彼はすぐにその場を離れると姿を消していた。
先程の出来事。彼はタイミングよく現れ、リジーをあの場から遠離けてくれた。
もしかして彼は自分を助けてくれたのだろうか、それともただの偶然なのだろうか。
ライ……。
その名を呼ぶのは心の中だけだった。
声をかけることも、その疑問を問うてみることも、今の晶にはできなかった。
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