6.真夜中のキャンディ
時刻は深夜に近かった。
肌を攫う風は冷たく、川の音は決して穏やかなものではなかったが今はここにいたかった。
周囲に灯りはなく、仄かな月の光がその下にあるものを照らしている。
水面には歪んだ蒼い月の影が時折映る。
晶は深夜になっても眠れずに、いつしかこの川辺に辿り着いていた。
行き場のない子供のように草むらに腰を下ろすと、その場に根を這ったようになる。次第に身体が冷えていくのを感じたがそれでも立ち上がれずに、ぼんやりと夜の気配を眺めていた。
自らの覚悟が生半可であったことを知る。
未だ
「何してるんだ、こんな所で」
突然その声が届いた。
思わぬ声に驚いて顔を上げるが、森の影から現れた相手は穏やかな歩調で近づくと僅か距離を取った場所で足を止める。
黒の上下に白いシャツ、黒いネクタイ。昼間と同じ服装だが、ネクタイは緩められている。いつもは整えてある髪も少し乱れて、その姿は自分が知る彼の姿により近く見えた。
「この場所は危ないって最初に忠告されなかったか? ここの流れは見た目よりもっと急なんだ。落ちたら助からない」
彼はそれ以上近づこうとせず、暗い水のうねりに目を留めたまま告げる。
月の光の下に見えるその横顔に晶は言葉を返した。
「……うん、知ってる」
「そうか、それならいいんだ……」
静かな返事が戻り、夜の静寂が再び続く。
晶は闇に響く川の音を聞きながら、このまま時が止まってしまえばいいと思っていた。
そうすれば自分はもう悩むことも、過去の罪を思うこともない。
でもそんなことはあり得ず、そうなるのを願うそんな自分も嫌だった。
現実からはもう目を逸らさない。彼と再会を果たした今なら尚更だった。
けれど今のこの時はほんの少しの間だけ現実を忘れたかった。
「なぁ、これ、やるよ」
「えっ?」
声と同時に何かが放られ、晶は自分に向けられたそれを反射的に受け取っていた。開いた掌にあったのは橙色の包み紙のキャンディだった。
「夕方、雑貨屋で買い物したらそこの婆さんがくれたんだ。俺は食わないからやるよ」
「あ……ありがとう」
晶は辿々しく礼を返すと、その少し子供っぽいプレゼントを見下ろした。
昔を思い出して自然に笑みが零れるが、これは喜んでいいことなのかそうでないのか、恐らく後者なのだろう。でも今は難しいことは考えずに包み紙を開いて口に入れた飴玉は、オレンジの香りがする懐かしい味がした。
目の前の川はいつまでも轟々と流れ続けている。
隣の気配は何も言わず隣に立ち続けている。
もっと彼に近づきたい。そんな思いが胸に強く湧き上がった。
ほんの数歩先にいる相手。
晶は立ち上がると、その思いのまま相手に歩み寄っていた。
「ラ……」
「待て。それ以上は近づくんじゃない」
闇に響いた拒絶が足を止める。
その声に現実を思い知らされた気がして、晶は自分の浅はかさに俯いた。
しかし拒絶を放った相手の足音が近づく。
傍に立った相手はしばらく惑う気配を発していたが、その手が伸ばされる。
無造作な手が髪がくしゃくしゃになるほど頭を撫でる。
彼の手はただ温かかった。それは昔も今も変わらなかった。
シリルが奪う者なら、彼は与える者だった。何かを失いかけた場所が埋められていくような思いを感じる。
六年前も彼のぶっきらぼうな優しさは自分を支えてくれた。彼にとっては単に隣室の子供という存在だったのかもしれない。だがたとえそうだったとしても、自分にとって彼が大きな心の拠り所であったのは間違いなかった。今のこの瞬間も多分、そうだった。
「明日も早い。部屋に戻ってもう寝ろ」
そう言って離れていく手は二度と近づくことなく、川辺を去るその姿も暗い森に消えてゆく。
晶はその姿を目に映しながら、何も言うことができなかった。
自分に寄り添ってくれるのは雲に隠れそうな月と、闇に響く川の流れだけだった。
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