5.前途多難

 ブラッドフォード家に来て五日目。

 晶は秘書としての仕事を淡々とこなしていた。

 常にシリルと行動を共にし、傍に控える。けれど秘書という肩書きはあるものの実際にできるのはスケジュールの通達ぐらいだった。しかし元よりそれ以上のことも求められていなかった。

 あの夕食時での出来事以降怖れは増していたが、シリルが微かでも垣間見せる綻びを手繰らなくてはならなかった。だが五日経った今でも彼は隙一つ見せない。無論たった数日で何かを得られるほど甘いものとは思ってなかったが、ミナに報告できる糸口のようなものさえ何一つ掴めていなかった。


「スティラー氏との会食後は新国立図書館の開館式に出席することになっています」

 晶は今日もシリルと共にライの運転する車に乗っていた。

 シリルが携わる事業は貿易業や不動産取引、新天地での石油掘削などを主とした国力にも影響を及ぼすものが多くを占めていた。それに加えて慈善事業にも積極的に関わっている。

 その部分だけを見ると後ろ暗い影などどこにもないようだが、彼は先代である祖父から全てを受け継いだ後も、他企業を合併吸収することで事業を拡大してきた。それらの大半はブラッドフォード側の圧倒的優位下の元に行われ、相手の持つ必要な部分だけを切り取り、後は切り捨てていく。そこには情も敬意もなく、そのようなやり方がいつまでもまかり通るはずもなかったが、今現在も何事もなく成り立っている。そんなやり方を押し通せるほどの手腕をこの若き主が備え持っていることをその事実が指し示していた。

 晶は隣にいる男を見た。

 美しく、聡明。しかしとてつもない闇の部分を持った男だった。


「晶」

 目を閉じて座席に身を預けていたシリルが突然名を呼んだ。こちらを見るその透き通った碧い瞳に昏い闇が増した気がした。

「何でしょう」

 身構える間もなく、その腕に引き寄せられていた。このまま身を委ねるのが正解と分かっていても身体は強張り、一瞬の躊躇が過ぎる。

 自然な動きで近づいた唇が重ねられ、弄ぶように僅か触れた後に離れていく。晶は自分の心が無であるのを望むが、それに反してその裏では様々な感情がざわめいて消えていった。

「拒むか」

「……いえ」

 微かな声を晶は返す。

 運転席と後部を隔てる仕切りは開いた状態だった。

 そこにはライがいる。相手に全てが伝わっていると思えば、先程以上のざわめきが過ぎるが、その隣を二年前も感じた苦い思いが併走していた。


 絶対的主シリルはその魅力で周囲の者を惹きつける。彼とっては戯れでしかないものに皆、惑わされ、皆、次第に自身を失っていく。そんな仲間達を晶は傍観していたが、それが自分の姿であるのも分かっていた。どれだけ多くの思いを寄せても、彼とっては自らを愉しませる〝モノ〟でしかない。愛されてなどいない。だがそこにあるものがそうでないかと自分に思い込ませて現実を知る度、落胆と絶望を繰り返す。

 今も目の前の男は胸の奥にあるものを乱暴に揺らす。

 けれど二年後の自分には分かっているはずだ。

 これは愛でもなく、望みをかけるものでもない。

 今やるべきことは彼の裏の顔を曝くことだった。


「何を考えている? 晶」

 呼びかけに目を向ければ、その碧い瞳に懐疑を見る。未だ残る感情を覆うために晶は顔を伏せようとするが、伸ばされた相手の指がそうさせなかった。

「晶、今度はお前の方からそれが欲しい」

「何を、ですか……」

「私にお前の忠誠を見せて欲しい」

 相手が何を言わんとしているかを悟って、晶は息を呑む。

 でも今の場での迷いは不要なものだった。ここで何かを疑われれば、密かな企ては終わりの色を見せる。それに相手は欲望から欲している訳では決してない。その冷ややかな瞳を見れば分かる。彼にとってこれは以前と同じくただの戯れだった。


 晶は相手に身を寄せると、唇を重ねた。

 柔らかい感触を感じながらも、過去の記憶に流されないよう自らを俯瞰して見張る。

 しかしその思いはじきに交錯する感情に乱される。すぐ傍には〝彼〟がいる。その存在に気を取られ始めれば羞恥にも似たものが膨張し、何もかも放り出して逃げ出したい思いで満たされる。その思いを打ち消そうとしても、混乱した感情が霧散するだけだった。

「着きました。ブラッドフォードさん」

 車の停止音が響き、その声が前方から届いた。

 すると途端、ただ触れていただけの唇が残酷な動きを見せる。掴まれた肩ごと身体が座席に沈み込み、何もかも奪うようなその動きに身動ぎも忘れる。

 だがそれは始まった時と同じく、突如終わりを迎えた。飽き捨てられた玩具のように突き放され、相手は何事もなかったように車を降りる。急いて後を追おうとするが、空白を思わせる虚無を感じて足元がふらついた。

「晶」

「はい、すみません。今行きます……」

 晶は先を行く主を追いながら背後の存在を思った。振り返ることなど当然できずに、冷えていくだけの唇に触れて思う。

 二年後の自分は分かっているはずだった。でも全てを受け止めきれるほど、まだ強くはなかった。

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