4.ワインとバット

 与えられた部屋は素晴らしいとしか言いようのないものだった。

 買い与えられたばかりの服はきちんとクローゼットに仕舞われ、丁寧なベットメーキングもされている。バスルームもクローゼットも、そこだけでアパートの自室を遥かに凌駕する広さが取られている。何よりも蛇口を捻れば必ず湯が出ることには感動するしかない。でもふとそんなことに浮き足立っている自分に気づいて晶は自戒した。

 バスルームの鏡と向き合い、自らに再度強く言い聞かせて髪と服を整えると、晶は部屋を出た。廊下を進む足を覚え立てのダイニングルームに向ける。夕刻、去り際のリジーに七時にシリルと夕食を取るようにと伝言されていた。


「晶」

 ダイニングルームに到着すると、既にシリルが席に着いていた。

 食事はすぐに始まったが広いダイニングの席に着くのは二人だけだった。単なる玩具でしかなかった二年前は共に食事を取ることもなかったが、その方がよかったかもしれなかった。常に緊張を覚える相手との食事は料理の味を感じる余裕もない。再び相手が言葉を発するまで、ダイニングには食器の擦れ合う音しか響いていなかった。

「晶、ディディはどうだった」

 届いた声に晶は顔を上げた。

 テーブル向こうの相手に目を向けるが、薄明かりしかない部屋ではその表情を読み取ることもできない。それでもうっすら笑みを浮かべているようにも見える相手に、晶は「よくしてもらいました」と小さく答えた。


「ディディは私の初等部時代の学友だ。おかしな女だが才はある。そして自らの立場を踏まえて、自分がどうあるべきかを知っている」

 相手は濃い葡萄色の酒の入ったグラスを手に語った。

 晶は夕方のライの言葉を思い出していた。

『……あの女には気を許すなよ』

 物事が表面通りでないことは分かっているつもりだったが、いざ渦中に立たされると迷いと足が竦むような感覚を覚える。もう何度目か分からない尻込みも覚えるが、そんなことを感じてばかりではこの先の道筋も立たない。ここでの生活はまだ始まったばかりだった。


「シリル、この人がどうしてもあなたに会いたいそうだ」

 その時ドアをノックする音が響き、リジーの声が届いた。

 開かれた扉の先には彼と、彼と同じほど体格のいい男性の姿がある。

 見覚えあるその姿に晶は目を止めた。男はこの街の野球チームに所属する選手だった。国内でも三本の指に入る打者で、花形選手だった。野球に詳しくない晶でもそれを知っている。名前は確かネイト・バーンズだった。

「食事中だとお断りしたが、聞かなかった」

「ブ、ブラッドフォードさん! いや、シリルさん!」

 リジーを押し退けるように歩み入ったバーンズは、シリルの前で膝をついて縋った。噂では彼は薬物使用と賭博容疑で、チームを追われる寸前のはずだった。


「……シリルさん、どうかお願いだ。俺にもう一度チャンスをくれ。あれはちょっと魔が差しただけで、俺の本意ではなかったんだ。あんたにも分からないか? つらかったんだ。怪我の長期治療とその渦中での離婚。元妻は可愛い一人息子にも会わせてくれない。金にしか目がなかった取り巻きの連中は理解するどころか、あっという間に俺から離れていった……俺の不幸の元凶は周囲にそんな連中しかいなかったことだ……酒浸りになったのも、薬に頼ったのも、八百長に手を染めたのも俺のせいばっかりじゃないんだ……だからシリルさん、オーナーにも顔が利くあなたが便宜を図ってくれたらきっと俺はまだ返り咲ける。そうなれば俺はあなたのためにも……」

「リジー」

 男の必死の懇願を冷たい声が遮った。

 跪く相手を見下ろすその顔には、必死の呼びかけにも感情を揺り動かされた様子は見えない。傍に歩み寄ったリジーは彼から何か指示を受け取ったのか、そのまま部屋を出ていく。じきに戻ったその手には一本のバットがあった。


「バーンズさん、これは君が以前、大記録を打ち立てた時に私に贈ってくれたものだ」

 リジーからバットを受け取ったシリルはそれを相手の前に翳す。

 それには男のサインと日付が書かれてある。使い古されたそのバットは男にとってきっと大切な記念品だったのだろう。それを冷ややかな目で見下ろした相手は静かな声で続けた。

「このバットは今夜まで私の書斎に飾ってあった。でもどうやらその行為は間違いだったようだ。私にはどうしても許せない類の人間がいる。生まれついての出来不出来、それはその人間が生まれ持ったもので、揺るぎないものだ。だから恵まれたものを持ち得ぬ者達はそれを補うために血の滲む努力をする。しかしその努力を自ら放棄し、そのことにも気づかずに身の程知らずな行動を取った挙げ句、うまくいかないのは世の中のせいだ、他人のせいだとみっともなく騒ぐ人間だ」

「シ、シリルさん……」

 語る声に怒りの感情は見えない。それは穏やかにも感じられるものだったが、その裏に潜む不穏を感じ取った男の目には怖れと怯えが湧き上がっていた。


「君の思いを汲むことはやぶさかではなかったが、その腐った性根を私の前に曝け出した君に望むことはもうない。これはお返ししよう」

「シリルさ……」

 男の背後に回ったリジーが彼を立たせる。

 いやいやをするように彼は身を捩るが、それには何の意味も持たせることができなかった。

 男の名が刻まれたバットが空を切り、彼の右脛に向かう。

 刹那、耳を塞ぎたくなる音が響いた。

 響いたのは骨の砕ける音。

 悲鳴を上げ、床に倒れ込む男の左足にその狂気が今度は振り下ろされる。

 続く無慈悲な激痛に男は叫び、床を転げ回る。しかしすぐさまリジーに引き摺られるように部屋から連れ出された彼の絶叫は、段々と遠離っていった。


「晶」

 ダイニングルームに響いたその呼びかけに顔を向ければ、微笑みを保つ男がいる。手にしたバットを放り、男は悠然と食事の席に着く。

「食事を再開しよう」

 晶は凍りついた表情でその姿を見ていた。

 床を転がっていくバットには赤い酒を散らしたような斑点が散っている。

 自分が知っていたのはこの男のまだ表層だったと気づく。そしてもう逃れられない場所にまで来ているのだと、その事実を胸に刻み込んでいた。

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