3.新しい生活
ブラッドフォードの屋敷は小高い丘の上に建っていた。
辺りに他の建物はなく、広大な土地を分かつ一本道を行き着いた先に屋敷がある。
昨日は緊張のあまり周囲を見る余裕もなかったが、今日はどうにか辺りを改めて確認できた。道の右手側、遥か向こうに常緑樹の並木が続いている。微かに届く水音からその木々に添うように川の流れがあることを知らせていた。
屋敷に到着した車はよく手入れされた前庭をぐるりと巡り、玄関前で止まった。
その場所では黒髪の長身の男が夕陽に照らされながら、到着を待ち構えていた。
「おい、今から屋敷を案内する。ついてこい」
黒髪の長身の男、リジー・ヘイズはそう言って背を向けると屋敷に戻っていく。
晶は急いで車を降りるとその後を追うが、最後に一度背後を振り返る。しかし視線の先にいる相手は他の人達と荷物降ろしの作業に忙しく、こちらを一瞥することもなかった。
先を行った男を追いかけて屋敷内に足を踏み入れると、昨日と同じく広いエントランスが出迎えていた。見上げた天井は高く、そこに描かれた絵画がこの屋敷を訪れた人達を見下ろしている。大理石の床は曇りなく磨き上げられ、その価値を本当に知り尽くして選りすぐられた調度品や美術品が並べられている。大きな花瓶に生けられた色とりどりの花々が、ホールの中心で瑞々しく咲き誇っていた。
「こっちだ。早くしろ」
リジーの鋭い声が飛び、晶は再び相手の背を追った。
エントランスから歩み出た相手が進む先には長い廊下が続き、いくつもの扉が連なっている。
古めかしい照明が周囲を照らし、先導する男は続く扉を巡りながら順に指し示していく。書庫に書斎、食堂に会議室、大広間に貴賓室……。二年前には覚える必要もなかった場所が秘書である今では認識の必要があるようだった。
「覚えたか?」
晶は相手の説明を必死に頭に叩き込んでいた。一度で覚えなければ二度目はきっとない。肯定の意を返すと、その顔には明らかに嘲笑と呼べるものが浮かび上がった。
「優秀だな。意外だよ。媚びを売る以外に芸のない小娘のお前に思考できる脳味噌があったとは驚きだ」
その言葉はこの相手が初めてこちらの目を見て発した言葉だった。心から冷えるようなそれには晶は息を呑むことしかできなかった。
以前から彼に嫌悪されているのは知っていた。元よりこの相手に好感を寄せられる理由もない。それは充分分かっているが、人から敵意を向けられ続けることを平気だと思える人間はいないはずだった。
「次は外だ」
何事もなかったように再び歩き始めた相手は廊下を進むと、裏口の扉に手をかける。開け放たれた扉の先には美しい庭園が広がっていた。
「向こうに見えるのが使用人の住居だ。執事やメイド、庭師、常時二十人ほどが住み込みで働いている。俺の部屋もそこにあるが、お前の部屋は屋敷内にある」
相手が指し示した場所には二階建ての白い建物がある。ちょうど庭園の東端に建つそれは晶の住むアパートより幾倍も立派な建物だった。
「だが俺は大抵、屋敷の控えの間で寝泊まりしている。だから何かあれば、すぐに対処するつもりだ」
男の冷たい声が続いた。こちらを見ることもなく発せられたその言葉が何を言わんとしているのかを思えば、答えの出ない漠然とした不安が過ぎった。
「もたもたするな。次はこっちだ」
相手は再度移動を始めていた。庭園を横切り、迷路のように巡る白砂利の小径を進んでいく。
しばらくして到着したのは森だった。
それ自体は人工的に作られた小さなものであるようだったが、鬱蒼とした木々がまだ残る夕陽を遮り、底のない深い場所に囚われてしまったような錯覚を覚えさせる。
その森を進むと突然視界が開けた。
そこには轟々と水音を響かせる大きな川がある。水面までなだらかに下る川岸の様相に反して、川の流れは激流と言ってよかった。傍に立てば水しぶきが絶えず頬に降りかかった。
「小娘、お前の目的は一体何だ」
突然その声が背後から響いた。
リジーがいつの間にかすぐ背後に立っている。相手の圧に振り返ることも許されず、晶はその場で身を硬くするしかなかった。
「簡単に尻尾を出してくれれば、俺は助かるんだがな」
何も答えられずにいると言葉が続く。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つが、この相手にここで何かを悟られる訳にはいかなかった。
「気をつけろ。落ちたらそれで、終わりだ」
続いた声に動揺は重ねられる。
肩に手が伸ばされる気配を感じて、晶は更に身を硬くした。
この男が肩を押せば、自分の身体は簡単に流れに呑み込まれるだろう。
頬に散る水しぶきの冷たさを感じながら、晶は過去のある出来事を思い出していた。
その当時屋敷には長年主の腹心を務める一人の男がいた。でもある時彼は国家警備隊との関与を疑われた。彼は必死に潔白を訴えたが、翌日忽然と姿を消した。数日後、苛烈な暴行を受けた痕跡を残した彼の射殺死体がこの川の下流で発見された。
「どうした? いつまでそこにいるつもりだ。早く来い。最後にお前の部屋を案内する」
その声に顔を上げれば、既に男の姿は背後にない。
言い放った相手は森の影に姿を消した。
晶はまだ残る緊張を追い払うように一度深く息を吐くと、水音を響かせる川岸を足早に離れた。
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