2.ディディという女

 隣の建物と雑然とした細い路地しか見えない窓を閉じ、部屋の灯りを消す。

 新聞など取っていないし、誰かから郵便物が届くこともない。全ての戸締まりを済ませると晶は隣室の扉をノックした。顔を覗かせたサラにしばらく留守にすると告げると、急な知らせに不安を感じたのか彼女は心配そうな顔を見せた。何でもないから、必ず戻るからと笑ってみせると、ようやく微かな笑みを返していた。


 翌日、午後二時。

 昨日車を降りた場所に向かうと、既に黒いリムジンが停まっていた。

 歩み寄るこちらの姿に気づいた相手が素早くドアを開けてくれる。窺った横顔には昨日と同じく、素っ気ないものしか見えなかった。同様の意味合いの呼びかけが走り始めた車内で響いていた。

「まずは身だしなみを整えろってさ。今から十番街に向かうから」

「……はい」

 慣れない後部座席で晶は小声を返した。

 今日も相手に話しかける隙はなかった。でも無駄な関係を作ることは不必要な危惧を生む。昨日のミナの言葉が思い出される。相手が忘れているのなら余計な足掻きはせず、このままでいる方がいいに違いなかった。


 車は駅前を抜け、高級服飾店や宝飾店などが建ち並ぶ通りに入っていた。間もなく車は一軒の店の前で止まった。

「この店にいるディディって名の女の所に行くんだ。話は通ってるはずだ。俺はここで待ってる」

 扉を開けた相手からは、再び伝言を思わせる言葉が届く。取りつく島もなく車に戻る相手の背を見送り、晶は目前の建物を見上げた。

 店の名は『シエラ』。白い壁に黒とベージュの装飾を施した外観は、周囲の店より一歩抜きん出た雰囲気が漂っていた。服や靴や装飾品、それだけでなく髪や肌の手入れまで全てを網羅する店のようだった。


 晶にとって十番街のこの辺り一帯は、いつも夜明け前にガラス越しに眺めるだけの場所でしかなかった。場違いな雰囲気に気圧されながらも店に歩み入ると、近くの店員にディディの名を伝える。じきに店の奥から、タイトな黒いドレスを身に纏った若い女性がやって来た。

「はぁーい、ディディでーす。呼んだー?」

 豊かな黒髪が胸元で揺れ、ひらひらと舞う指先は紫色のネイルで彩られている。青を基調とした化粧が少し濃い目だが、それに負けない美麗な顔立ちをしている。

 彼女は店先に立つ相手の姿を菫色の瞳で捉えると途端に破顔し、小走りで駆け寄ってきた。


「やだー、なにこれー、すんごくきゃわゆーい。男の子ー? 女の子ー? やだー、女の子だー」

 目を瞠るほどの美しい女に突進されたと思ったなりに、胸をやんわり鷲掴まれていた。目を白黒させている間に手を取られ、気づけば大きな鏡の前の心地いい椅子に座らされていた。

「どーもよろしくねー、ディディでーす。話はシリルから聞いてるよー。名前はえーっと、晶ちゃんだったっけー? だけどさー、彼から見てやってくれって言われたけど、髪も肌もきれーだし、別にこのままでもいいのにねー。うん、それじゃその辺りはあたしがてきとーに弄くり回して既成事実を作っとくから、あとは一緒に服、選ぼっかー」

 美しく怜悧な顔立ちに合わないのんびりした声が響く。

 その後は相手に流されるまま晶は生まれて初めての場所で、生まれて初めての扱いをされた。

 いつも洗って乾かすだけの髪には丹念に櫛が入れられ、申し訳程度にしか構っていない肌は申し訳ないほどに手入れされた。それらが終われば、ああでもないこうでもないと熟考するディディに何度も着せ替えさせられ、次第にここで何をしているのか分からなくなってくるほどだった。試着室から無事解放された時には既に数時間が経過していた。


「へぇー、今日はあの全身狂気男じゃなくて、ライが来てるんだー」

 試行錯誤を繰り返して、ようやく満足を得た女主人はティーカップを手に窓から通りを眺めていた。

 彼女の視線の先にあるのは車道に駐められたリムジンだった。

 長時間待機中の運転手はその傍で退屈そうに欠伸をしている。

 言葉の前部分がリジーを指しているのはすぐに分かった。そして後半部分のその名を誰かが発するのを初めて耳にして、晶は自分の体温が二度ほど上がった気がしていた。

「あの……ディディさんはあの人のこと、よくご存じなんですか……?」

「やだー、ご存じですかなんて、他人行儀に言わないでもっと気軽に話してよー。ライとはまるで逆ねー。あの人はさー、最初っからこのあたしにタメ口よー。あんだけ男前じゃなかったらそんなド失礼な奴、その場で絞め殺しちゃってるわよー」


 届いた言葉をどう受け取ればいいか分からず、晶は曖昧な表情を返すしかなかった。窓際で変わらず美しい立ち姿を見せる女主人は笑みながら言葉を続けた。

「だけど今日来たのがリジーじゃなくてホントよかったわー。あたし、あたしを嫌いな人のことはその数億倍嫌うのを信心にしてるのよねー。あいつさー、いい加減死んでくれないかなー。もう三十は過ぎてんだっけ? このギョーカイでは結構いい頃合いなんじゃないかと思うんだよねー。てか、そんなの待ってないであたしがさっさとっちゃえばいいかー」

 言われながら女神のように微笑まれても、今度もどう応えればいいか分からなかった。大量の服に囲まれながら晶は再び曖昧な表情を返すしかなかった。


「結局あんまし変わんなかったねー。でもこれが一番いいと思うよー」

 髪を整え、化粧もされたが全体の印象は来た時とあまり変わらなかった。今身に着けているのもグレーのパンツに同色のジャケット、シャツはエレガントな雰囲気のデザインだったがボタンは上から二つ開けてある。その他の服もディディが選んだのはどれもモノトーンを基調としたシンプルなものだった。スカートよりパンツが多く、ミニのドレスもあったが女性らしい服の割合は少なかった。

「待ちくたびれた」

 ディディと店の外に出ると、陽の傾き始めた舗道から吐息混じりの呟きが届いた。それには早速女主人が素早い反応を見せる。彼女は腰に手を当てて相手の前に立つと、見上げながら言葉を並べ立てた。


「はぁ? 待ちくたびれたってそれがあんたのお仕事でしょーが? この顔しか取り柄のないしがない運転手風情が。つまんない文句ばっか言ってるとシリルに言いつけるよー」

「あー、頼むからそれだけはやめてくれ。全面的に俺が悪かった」

 相手は苦笑を浮かべながら、次々に運び出される衣装箱をトランクに積み込んでいる。その背後に忍び寄った女主人は今度は蠱惑的な笑みを浮かべると、耳元に囁いた。

「それじゃあさぁ、シリルには言わないであげるから代わりに今度あたしの別宅に遊びに来てよ。夜通し酔えるいいお酒用意するし、何もかも忘れるほど夜通し愉しませてあげる」

「それ冗談だろ……? んな怖いことできるか」

「なによー、あたしのこの誘いのどこが気に入らないって言うのよー」

「代償がどう考えても大きすぎる。俺はできればもうちょっと長生きしたい。あんたの旦那を敵に回すのはどう考えても賢い選択じゃない」

「なにそれその弱腰、弱虫だなー。あのおじーちゃんはさぁ、あたしのすることにはなんにも文句は言わないよー」

「そう思ってるのはお前だけだよ。この街で忽然と姿を消す若い男のほとんどは、あんたの火遊びの相手だって噂だ」

「それならそれでいいじゃない。それっくらいスリリングな方が愉しいでしょ? ねぇーライー、つれないことばっか言ってると、今度あたしがマジで殺しちゃうよ?」

 そう言うディディの左手薬指には大きなダイヤの指輪が光っている。彼女はその指輪を見せつけるように再度蠱惑的に笑むが、それをちらりと見た相手は荷物を載せ終えたトランクを閉めて殊更大きな声を上げた。


「それじゃ、お世話様でしたー」

「なによー、そうやって今日もまた逃げ果せる気?」

「あのな、こんな戯れ言にかまけてないで、早くあの子を送り届けないと俺はお前にじゃなく、雇い主の方に殺されそうだ」

「ふーん、そうなったらそれはそれで面白そうだけど、その役目をシリルに取られるのはなんかヤだなー」

「あー、はいはい、お金持ちのお戯れはそっちで勝手にやってくれ。俺はもう行く。ほら、早く乗って」

 言葉の前半はディディに、後半は晶に向けたものだった。二人のやり取りを少し離れた場所で眺めていた晶はその言葉に促されて急いで車に乗り込んだ。


「毎度のご利用、ありがとーございまーす。二人とも、また来てねー」

 窓の外ではディディが手を振ってウインクしている。晶が小さく頭を下げると投げキスまで送ってくるが、速度を増した車はあっという間に彼女の姿を遠くのものにしていた。

 視線を前に戻すと、今日はまだ運転席と後部を隔てる仕切りが開いていた。

 無精髭の残る横顔、眉尻の古傷、シャツの首元から僅かに見えるタトゥー。何度も確認しなくとも、そこにいるのは間違いなくライだった。

 ディディとの会話で聞いた口調も六年前と変わっていない。姿だけでなく、雰囲気もあの頃と変わりなかった。その声をもう一度聞きたいなどと性懲りもなく詮ないことを考え続けていると、思いがけず前方から言葉が届いた。


「……あの女には気を許すなよ」

「え?」

「……何事も油断はするなってことだ。ディディはああ見えてこの街の大物ギャングの娘だ。ライバル店が同じ通りにないのも、十番街の一等地に店を構え続けられるのも、彼女のの賜だ。いつも口癖みたいに言ってる物騒なあの言葉もどこまで冗談なのか分からない」

 晶はその言葉に何も応えられずにいた。自らが足を踏み入れた場所がどんな場所であるかを、暗に指摘された気がしていた。

 華やかに見えてもそれは闇と紙一重の場所にある。自分が秘密を抱えるように、今そこにいる相手も人に言えない暗いものを抱き続けているのかもしれなかった。

「だけどまぁあいつの選んだその服、似合ってるよ」

「えっ?」

「馬子にも衣装だな」

 相手はそう言いながら仕切りを上げた。その姿を見ることはもう叶わなくなったが、最後に垣間見た横顔に昔の面影を感じたようにも思っていた。

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